「自白」が「具体的で迫真性に富ん」でいるのはあたりまえ


2005年に発生した旧今市市の女児殺害事件に関して昨日下った無期懲役判決について、報道では被告人の捜査段階の自白について「想像に基づくものとしては特異ともいえる内容が含まれている。体験した者でなければ語ることのできない具体的で迫真性に富んだ内容だ」(4月8日の『朝日新聞』)と評価された、などとされています。
この裁判については詳しくフォローしていたわけでもありませんので「冤罪だ」と主張するものではありませんが、「具体的で迫真性に富んだ内容」云々という評価が独り歩きしてしまう(自白が「具体的で迫真性に富んだ内容」なら有罪にしてよい、という印象を与えてしまう)ことには危惧を覚えます。取調官がまとめる自白調書が「具体的で迫真性に飛んだ内容」になるのはある意味あたり前だからです。以前に『供述調書作成の実務』という書籍をとりあげたことがありますが、それには次のような“心得”が書かれています。

 捜査は、裁判において、適正な事実を認定し、かつ適正な量刑を得ることが最終目標であり、そのためには、まず被疑者を取り調べて真実を供述させることが事件の真相を解明する上で重要である。そして、その被疑者の供述を証拠とするためには供述調書を作成して、裁判の場に提出しなければならない。供述調書は、証拠となるものであり、裁判官に読んでもらい、納得してもらえるものでなければ意味がないのであり、供述調書の作成にあたっては、取調官において犯罪の構成要件を正確に把握した上、被疑者の供述をありのままに録取するとともに、犯行の動機、犯意、犯行状況など、それぞれの構成要件に即した要点を的確に押さえた供述調書を作成することが必要である。

こんにち冤罪であったことが明らかになっている事件の裁判でも、虚偽自白調書に同じような評価が下された事例があったことを忘れるわけにはいきません。上記のような姿勢で取調に望む取調官は「犯行の動機、犯意、犯行状況など、それぞれの構成要件に即した要点」が書けるようになるまで尋問をくり返すわけで、無実の人間にも「「具体的で迫真性に飛んだ」自白はできてしまうのです。
さすがにこの判決を受けてメディアには「自白に頼らぬ捜査を」という声も出ています(東京新聞の社説など)。他方、どんな事件でも客観的証拠が潤沢にある……というほど世界は都合よくできてはいません。こうした制約のなかで冤罪を減らす(と同時に、捜査側の不手際により無罪になってしまう真犯人を出さない)ために、調書を一問一答式で記録する――別途「要点を的確に押さえた供述調書」を作成しても構わないが、そうした調書は否認事件では証拠にしない――といったことも「すぐにできる対策」なのではないでしょうか。