供述分析という手法をめぐって

When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.


「法と心理学会」の学会誌『法と心理』第7巻第1号(2008年)に、浜田氏の『自白が無実を証明する−袴田事件、その自白の心理学的供述分析』の書評が載っているのを見つけたので当ブログでもいずれとりあげるつもりでいたのですが、先日援用した高木光太郎氏の『証言の心理学 記憶を信じる、記憶を疑う』(中公新書)を読んでいたらほぼ同趣旨の記述があり、「あれ?」と思って確認してみたら『法と心理』に掲載されていたのも高木氏による書評でした。『証言の心理学』では第5章が浜田氏の「供述分析」アプローチの紹介にあてられています。
現在の日本の司法システムの下で心理学者が刑事裁判に関わる上での困難は、次のように要約されます。

 実験心理学をベースにした証言の心理学によって、このような記録〔供述調書のこと、引用者〕を分析・評価することは非常に難しい。被疑者や目撃者の証言、取調官の質問をそのままのかたちで分析できることが大前提となっているからだ。実験心理学者からみれば、供述調書という記録は証言以外のものによって「汚染された」「劣悪な」データであり、とても科学的な検討の対象にできるようなものではないということになる。
(129ページ)

しかし冤罪が疑われる事件が現にあり、そうした事件のほとんどで供述調書しか利用できるデータがないとすれば……。

 (……)証言の世界を「内側」から眺め、とらえていく内在的な方法。本章では現実の裁判との格闘のなかで、こうした可能性をほとんど独力で切り開いていった浜田寿美男の「供述分析」アプローチを概観していくことにしたい。
(126ページ)

密室での取り調べが生み出す「供述調書」という記録文書がもたらしている困難にとりくんだパイオニアに敬意を払いつつ、著者は「供述分析」アプローチが成立する根拠を次のように説明します。

 供述調書を主な分析対象とした証言の心理学はどのように可能となるか。浜田が注目したのは取調べ・事情聴取の反復である。日本の取調べや事情聴取では、同じことを複数回証言するよう求められることが多い。警察官による取調べ・事情聴取で員面調書〔司法警察員面前調書のこと、引用者〕が作成されたのち、検察官も独自に取調べ・事情聴取をして検面調書〔検察官面前調書のこと、引用者〕を作成するからだ。事実関係が複雑な事件では、同一の事項について複数の員面調書や検面調書が作成される場合もある。
 (……)
 どうして変遷に注目することで、証言の抱える問題に迫ることができるのだろうか。取調べ・事情聴取は、供述者である被疑者や目撃者と、取調官のコミュニケーションの過程である。したがって供述調書とは、それが最終的に取調官によって整理・要約されたものであっても、完全な捏造でないかぎり、供述者と取調官のコミュニケーション=共同作業の産物であるということになる。供述調書間にみられる変遷も同様である。それは供述者と取調官のコミュニケーションの力学のなかで生み出される現象であると考えられる。
(130-131ページ)

証言者の「記憶」に代わって「証言者と聞き手のコミュニケーションの構図」という新たな「対象」を発見したことが、供述分析というアプローチの「インパクト」であった、ともされています(152ページ)。わたくし個人についていえば、戦争犯罪に関する(主として)加害者の証言にまつわる問題に対する関心と冤罪事件に対する関心とをつないでいるのもこの「証言者と聞き手のコミュニケーションの構図」という観点です。

 論理的に考えて、この力学から変遷が生み出される可能性は二種類に分けられる。一つは供述者由来の変遷。供述者が自発的に供述内容を変化させることによって生じる変遷である。もう一つは尋問者由来の変遷であり、取調官が持つ事件情報や捜査仮説が供述ないように混入してしまった可能性である。
 (……)
 観察された供述の変遷が、このような供述者由来のものとして説明できない場合、変遷が生み出されるもう一つの可能性、つまり取調官による影響が最も合理的な説明として採用されることになる。事件の記憶をもたない(あるいは非常に曖昧な記憶しかもっていない)被疑者や目撃者が、取調官の圧力や誘導のなかで供述者として振る舞うことによって生み出される証言が示す変遷のパターンである。
(131-132ページ)

具体的な事例としては狭山事件の供述調書の分析と、1974年の富山(とみやま)事件における目撃証言の変遷(犯人の一人について当初「二十歳〜三十五歳」とばらついていた証言がなされていたのに、数回の事情聴取を経て「二十四歳〜二十七歳」に収斂した、という事例)が紹介されています。


第6章では著者らが足利事件にとりくみ法廷での菅家さんの供述を分析したアプローチ(スキーマ・アプローチ)が紹介されていますが、その際浜田流の「供述分析」アプローチを用いなかった理由の一つが、前述『法と心理』掲載の書評でも指摘されていた「違和感」であるとされています。

 供述分析を用いなかった二つ目の理由は、私たちがこの方法にある種の「違和感」を覚えていたことにある。供述分析では、例えば「すでに犯行を認めたものが〜を隠しておく理由はない」「犯行体験をもつ者が犯行の骨子である〜といったことを忘れているとは考えにくい」など、「当事者の視点」に立って変遷や供述内容の評価をすすめてゆく。しかし、このような分析の視点は常に妥当なものなのであろうか。浜田の分析を読んでいると、「確かに自分でも、この状況でこういう行動はとらないだろう」などと納得できることも多い。しかしその一方で、「どんな人でも、いつもこのように行動する(行動しない)ものだろうか」と思ってしまうこともあった。
(156-157ページ)

供述分析が“無罪の証明”足りうるためには、供述の変遷が「供述者由来のもの」足り得ないことを示さねばなりません。その際浜田氏が依拠するもっとも基本的な仮説は「「嘘」には必ず意識的な理由がある」(『自白が無実を証明する』、104ページ)というものです。

 人の行動は時として不可解であり、不合理である。あとから考えても「なぜあのときそれをしなかったのか」「どうしてそんなことをしてしまったのか」と思うこともある。そうした時々の状況のなかで生じた行為の揺らぎや、その人独特の(「普通」とは異なる)反応のあり方などを考慮せず、「通常は考えにくい」「このようにするのが普通であろう」というかたちで、いわば「通常人の合理的な行為」を想定することは本当に適切なことなのだろうか。浜田はこうした「当事者の視点」の設定を理論的に基礎づける「一般心理学」を構想しているようだが(浜田、二〇〇二)、それはまだ十分なかたちでは示されていない。供述調書の変遷を当事者の視点でトータルにとらえようとする供述分析の方法論に大いに共感しつつ、私たちはこうした点に「違和感」を感じていたのである。
(157ページ)

引用文中で言及されている「(浜田、二〇〇二)」とは『〈うそ〉を見抜く心理学―「供述の世界」から』(NHKブックス)を指します。具体的には269ページ以降、「素朴心理学から一般心理学へ」と題された一節が該当します。「素朴心理学」とは例えば、「やってもいない人間が、自白すれば無期懲役、下手をすれば死刑になるかもしれないというのにうその自白などするはずがない」といった判断などのことだと考えればよいでしょう。このような先入観に対しては、取調べという場の独特さや被疑者がおかれている環境の“異常さ”を指摘することにより説得的な批判がなされています。しかし取調べという場、取調官と被疑者の関係の異常さを強調すればするほど、「いわば「通常人の合理的な行為」を想定することは本当に適切なことなのだろうか」という高木氏の「違和感」にも根拠があると言えそうです。もちろん、取調べにまつわる異常さを織り込み済みの心理学的モデルと、「やってもいない人間が自分に不利な嘘をつくはずがない」という素朴心理学的モデルとを同列に扱うことはできませんが、供述分析が現時点で「常に妥当」なものであるとは言えない、という意味でなら高木氏の批判には首肯せざるを得ません。もっとも、そもそも供述分析は「常に妥当」な分析など不可能であるという認識から出発していること(「見えなさからの出立」、『〈うそ〉を見抜く心理学』263ページ)、また高木氏らのスキーマ・アプローチは菅家さんが一審公判でも“自白”供述を行っていたからこそ可能になった(公判では当初から否認した場合には利用可能とは限らない)、という事情にも留意する必要はあろうかと思います。