『世界』7月号特集「裁判員制度1年」

『世界』の10年7月号で「裁判員制度1年――司法は変わったか」という特集が組まれている。「虚偽自白」に関係する記事は次の3つ。

  • 佐藤博史・木谷明・高木光太郎、「足利事件・取調べ録音テープを聴く」
  • 江川紹子、「厚労省・郵便不正事件の裁判で何が起きているか」
  • 佐藤幹夫、「知的ハンディキャップと「虚偽自白」の問題」


村木元局長の公判で主立った供述調書の証拠採用が斥けられたのが今年の5月。つまり検察の失態が法廷で明らかになりつくして以降に書かれているので、「厚労省・郵便不正事件の裁判で何が起きているか」はこの裁判をきちんとフォローしていなかったひとにとってはよいまとめになっているのではないか。法廷では次のような場面もあったという。

 さらに、検察側は法廷での証言の前に、ゴルフ場に照会をして、石井〔一・参議院議員〕の主張が事実であることを確認しながら、それを隠していた。発覚したのは、検察官が石井への質問の際、「その日はインのスタートで……」と口走ったからだ。主任弁護人の弘中惇一郎はそれを聞き逃さず、「証拠のどこにも、イン・スタートとは書いていない。それが分っているのは、ゴルフ場に照会したからに違いない。開示すべきだ」と追求した。検察側は「捜査中」「まだ証拠化していない」としどろもどろ。
(179ページ)

ところで江川氏は小坂井久弁護士の談として、地検特捜部の捜査に多く見られる問題点を紹介しているが、その一つにこういうものがある。

(……)捜査は主任検事がすべての情報を握っていて、他の検事は事件の全容も知らず、判断する権限もない。『こういう供述を取ってこい』と主任に言われて、ひたすらその通りの供述を取る。(……)
(178ページ)

これを裏付けるような証言が、ロッキード裁判丸紅ルートの公判で特捜検事によってなされたことがある。

弁護人「証人は、吉永副部長から“五億円がIを通じて政府高官に流れている”と指示されたときに、その根拠を聞かなかったのですか」
証人「聞いておりません」
「どうして聞かないのですか」
「Iさんを調べなさいといわれて、副部長に“何の証拠を持っているのですか”と聞くべきではありません」
「根拠も何もないのに間違いないと思うのですか」
「指揮官のいうことをあれこれ疑っていたら捜査にならんです」
(『裁かれる首相の犯罪 ロッキード法廷全記録 第8集』、241ページ。)


「知的ハンディキャップと「虚偽自白」の問題」は千葉・東金事件についてのドキュメントの3回目。過去2回(09年4月号、8月号)は捜査当局の筋書きには疑問を呈しつつも“殺意のない、偶発性の強い事件なのでは”という観点から書いていたとのこと。09年9月に弁護団が無罪を主張する(責任能力などで争うのではなく)ことを記者会見で明らかにし、10年1月15日に再び記者会見を行なっている。第3回はその記者会見における弁護団の主張の紹介が中心。
後者の記者会見では被告人の身体能力や供述に関する鑑定結果が説明されたとのことで、供述に関しては当ブログでも何度か言及してきた高木光太郎・青山学院大教授を含め4人による鑑定書が提出されている。そのうち、富田拓・国立武蔵学院医務課長と高岡健岐阜大学准教授(精神科医)の両氏が共通して指摘しているのが、取調官の態度が被告人にとって「心理的報酬」となっており、供述の任意性に重大な疑いがあるという点。

 〔富田氏の〕鑑定結果によれば、「被告の供述には、精神遅滞者に典型的な特性が見られる。取り調べが、誘導、教示、ある方向性をもつ励まし、といったものとなっており、被告の供述はそれに大きく左右されている。たとえば、自分たちの要求に合致した供述をしたときには褒める。合致していないときには『勇気を持て』『がんばれ』などと言われる。」
(……)
 そのように「褒めたり、励ましたり、勇気があるとか、よく頑張ったとか繰り返し、心理的な報酬を与えながらやりとりをつづけていくことが、大変に明確な特徴の一つ」という鑑定だった。
(190ページ)

 (……)また、褒めてもらいたいという言葉が接見に出てくることも、高岡氏は指摘している。「僕は頑張った。だから取り調べの刑事さんから、褒めてもらいたい」。こうした言葉は、〔部分可視化のための〕DVDにも収録されている。「がんばって本当のことを話すように」、「勇気を持って話しなさい」などの言葉がけは、被告人にとっては心理的な報酬であり、こうしてえられた供述には、任意性・信用性に重大な疑いがある。
 供述内容も次々に変わっていく。特に犯行態様について、とりわけどんな方法で殺人を犯したかというそのやり方は、話すたびに変わっていく。こうした不可解な供述の変遷があるのに、どうして変わるのかという理由が何も捕らえられていない。これは著しく問題である。このような鑑定書だった。
(191ページ)

「勇気を出して本当のことを話せ」という慫慂は、それ自体としては「自白へと向かう心的力動」のうち浜田寿美男氏が「自白衝動(悔悟)」と分類するものを強化しようとするものである。高い被誘導性・迎合性のような人格特性を持たず、心身を拘束されてもいない人間が心当たりのないことについて「勇気を出して本当のことを話せ」としつこく言われたとしても、「バカなことを言うな!」と怒るのが関の山であって虚偽自白を誘発することはない。しかし拘禁状態下で「こいつが犯人に違いない」と思い込んだ取調官から繰り返しこのように言われたとしたら……。すべての取調官に心理学者たれと要求することはできないだろうが、知的障害を持つ被疑者の取り調べにあたっては被誘導性や迎合性に留意すべきことはもはや常識といってよいのではないか。もし検察側が有効な反論をできず無罪となった場合、「虚偽自白を引き出すつもりはなかった」という弁明は許されるべきではない。
著者は取調べの可視化に反対する者がたびたび持ち出す「信頼関係」論について、次のように言っている。

 可視化をめぐる議論の際に「信頼関係」という言葉がよく口にされる。「取調官を教師のように信頼し、導かれ始めた」とか「父親のように信頼して話し始めた」といったコメントがときに報じられるが、それは取り調べる側から見た「信頼関係」だろうと思う。被疑者から見れば、あきらめや自己放棄とも言うべき逃れられない従属関係に、文字通り心身ともに入り込んでしまったということではないか。
 取調室にあっては、自由意志が、もはや自分の自由な意志などではなくなる。知的障害をもつ人びとは、その自由意志のあり方において、もともと弱さをもった人たちである。彼らが「信頼関係」に入るとは、自分の意志が相手(取調官)の意志と切り離し難い心理状況に入ってしまった、飲み込まれるような関係になってしまった、ということではないか。
 そのような関係をつくるための有効な手段が、彼らにあっては「心理的報酬」を用いた尋問の方法なのである。
(192ページ)


足利事件・取調べ録音テープを聴く」については、日を改めて書くことにする。