天皇による天皇の政治的利用

 こういう状況において、実は天皇が具体的な「外交」に動きだしたのである。六月下旬に来日したダレスに対し、講和条約が取り決められる以前に「日本の国民を真に代表し、永続的で両国の利害にかなう講和条約の決着にむけて真の援助をもたらすことのできるそのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべきであろう」という「口頭メッセージ」を伝えた。次いで八月に入って関係者の間で「文書メッセージ」がまとめられたが、そこでは、追放されている「多くの有能で先見の明と立派な志をもった人々」が彼らの考え方を公に表明する立場にいたならば、「基地問題をめぐる最近の誤った論争も、日本の側からの自発的なオファによって避けることができたであろう」と述べられていた(拙著『安保条約の成立』)

豊下楢彦、『昭和天皇マッカーサー会見』、岩波現代文庫、117ページ(原文の傍点をボールドで置き換えた)。時は1950年、第3次吉田内閣が講話問題に取り組んでいた時期のこと。明らかに当時の内閣に対する不信任を表明したメッセージである。
 引用文中の「こういう状況」とはおおよそ次のようなものである。50年4月に吉田茂池田勇人蔵相をアメリカに送り、日本側から米軍の日本駐留をオファーすることを「研究」してもよいというメッセージを伝えたが、同時に渡米し別行動をとった白州次郎が米国務次官補に対し「日米協定で米軍基地を日本において戦争に備えることも憲法上難しい。そういう協定には反対する日本人がふえていくだろう」と伝えた。「以上の経緯は、吉田が米国側に「ダブル・シグナル」を送ったことを示唆しているのであろう」(同書、116ページ)。憲法9条と東西冷戦をテコになるべく日本を高く売り込もうとした*1と言うこともできる。ところが、すでに47年4月の段階で、昭和天皇は「吉田白州のラインに疑念」をもっている旨側近に漏らしている(同書104ページ)。

四月九日
(略)
拝謁 フィトネー〔ホイットニイ?〕の話
侍従長とフィトネーの話をなす
陛下ハ吉田白須〔白州〕のラインに疑念を持たるゝなりと云ふ
(略)

昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』、文藝春秋、310-311ページより。マッカーサーとの会見の記録からも、昭和天皇は日本に対する軍事的コミットメントに消極的なマッカーサーの姿勢に懸念を持っていたことがわかる。「吉田白州のライン」への「疑念」もこれと軌を一にしたものであろう。

*1:そのツケを払わされるのは主として朝鮮半島の人々であるわけだが。