レス
お返事いただきました。
(1)については「あ〜、そういう人権感覚なのね」、と。
(2)については要するに右派が『靖国』を批判すること自体を批判する者はいなかった、ということでいいんですな? だとすればことさら「映画「靖国」批判も、批判者は「私たちはあの映画の社会的責任を、社会的に問うているのだ」と正当化できるのではないかと」などと書く意味がどこにあるのか。まるでどこかに右翼が『靖国』の「社会的責任」を問題にすること自体がけしからん、と主張した人間がいるみたいじゃないの。右翼の言う「社会的責任」が的外れだ、という反批判ならあったけどね。
(3)について。『靖国』に関してはいわゆる街宣は大した規模ではなかった。それでも街宣が効果を発揮するのは物理/身体的な暴力の予期があればこそ、じゃないの? と。
(4)首尾一貫した態度としては「法的な責任以外は一切負うつもりもないし追求するつもりもない」か、「より広い責任を追及するつもりもあるし負うつもりもある」のどちらか(もちろん、自分の表現行為についてはより広い責任を負うが、他者については限定された責任しか追求しない、という第3の立場もありうるだろう)。表現への抗議もまたそれ自体表現行為だからね。前者を選ぶのであれば、少なくとも主張の首尾一貫性という点では文句は付けられない。「まあ、最終的にはしゃあない」がどの立場を表現しているのかはっきりしないところはあるが、自家撞着ではないようなのでその点は了解。
しかし「法的な責任以外は一切負うつもりはない」という立場を取る人間なら、法の範囲内での抗議行動によってある作品が上映中止とか絶版とかいった結果になったとしても、抗議者の「責任」を問題にする余地はないはず。「私がある作品を批判して、作者が作品を絶版にしたり、断筆したりするのは「具体的人権侵害」になるのですか」という hit-and-run さんの追求に対する返答は逃げだよね、というはなし。「はたからみれば相違点を持ちつつまとまってきているように」は見えないよ、と。
追記:ムハンマド諷刺画問題との関連について。
上で言及した hokusyu 氏のエントリ(「寛容は不寛容を寛容しない」)に対するレスポンスとして「表現の自由についてだけ反応」がある。コメント欄に登場している boxman氏はそれに先立って「ムハンマド風刺画事件について」というエントリを書いているが、主な論点の一つは次の点にあると言えよう。
私が以上の経緯を提示した上で考えてもらいたいのはこれは本当に「表現の自由」を巡る事件なのか? という点である。2006年2月以降、問題がヨーロッパ対イスラムの泥の投げあいになって以降はたしかにイスラムの「宗教」に対するヨーロッパの「表現の自由」という構図になるのだろうが、事件の初期段階、国内の民族差別的風潮を助長するような表現への謝罪を求めたデンマーク国内のムスリムに対し、一貫して謝罪を拒否し「これは表現の自由を検証するテストだ」という主張だけを続けたユランズ・ポステン紙の態度はどう考えても妙である。これでは要求に対する返答にまったくなっていない。そもそもユランズ・ポステン紙が求めた「イスラムへの自主規制の見直し」はムスリム団体が自主規制を求めたわけではない以上、国内のムスリム団体とは単に無関係であり、実際ユランズ・ポステン紙自身が「これはイスラムに向けたものではない」といっている。
このエントリの冒頭で gryphon氏へはIDコールがなされているわけだが、あなたはこの boxman氏の議論を踏まえたうえでムハンマド諷刺画問題と映画『靖国』問題とを結びつけているのか? ということが実は問いたいのである(はっきり書かなかったのだから、届かなかったのはこちらのせいだが)。
「表現の自由についてだけ反応」のコメント欄ですでに今回の事態を先取りするようなやりとりがなされていることは、極めて興味深い。