三木首相(当時)が密使を


asahi.com 2010年3月7日 「三木元首相「自民出て総選挙」示唆 疑獄事件で米に密使」(魚拓1ページ目2ページ目

 戦後最大の疑獄といわれるロッキード事件への対応をめぐり、1976年春、当時の三木武夫首相が外交評論家の平沢和重氏を密使に指名して、キッシンジャー国務長官と交渉させていたことが、このほど秘密指定が解除された米政府の内部文書でわかった。三木首相は、日本政府・与党の幹部が事件に関与しているかどうか内密で確認を求め、回答次第では自民党を割って総選挙に打って出る可能性を伝えていた。日米関係の裏面史がまた一つ明らかになった。
(中略)
 平沢氏とキッシンジャー氏は3月5日、ワシントンで極秘に会い、大統領の返書について話し合った。国務省の記録によれば、米側は資料提供の条件として「秘密扱い」を求め、平沢氏の同意を得た。両者で返書の文案を検討し、表現をいくつか削除した。


 返書は3月12日に日本に届いた。両政府は、米国が資料を秘密扱いで日本の検察に渡すことで、同月23日に合意。捜査や訴訟にのみ使うのが条件で、「法執行の責任を有しない政府機関に開示されてはならない」と規定された。
(後略)

先月もロッキード事件に関する米公文書に基づく報道があったところですが、ロッキード事件陰謀説の棺桶の蓋に釘が打たれた、といったところでしょうか。まあ陰謀論者のなかには「陰謀を隠蔽するために作られたダミーの公文書だ」とか言い出す人もいるかもしれませんが。
さて、朝日新聞の夕刊で連載されていた「検証 昭和報道」の「ロッキード事件」の章について、興味深かった点をいくつか。
第8回では、田中の秘書の榎本が、一審の審理終了間際になってテレビ朝日の番組で5億円の受け取りを認める発言をした件がとりあげられている(榎本は捜査段階ではほぼ前面自供、法廷ではそれまで全面否認だった)。

 田中弁護団の事務局長だった稲見友之(71)によると、当時、弁護団の一部に、控訴審では榎本証言を前提に検察ストーリーを否定すべきだとの意見があった。田中は弁護団から全面否認方針を変えるかどうか決断を求められ、悩んでいたという。その直後の85年2月末に倒れ、結局、控訴審も全面否認を貫くことになった。

「検察ストーリーを否定」とは要するに金を受け取ったことは認め、その趣旨で争うということ。まあ5億円が政治献金だったという主張がそうやすやすと通ったとも思えないが。ところで、テレビでの榎本証言は現金入り段ボールを受け取った状況については、検察側の描いた構図とは食い違っていた。

 今回、榎本は朝日新聞の質問に「政治献金はもらった。街頭で受理したことはない」と文書で回答し、検察の筋書きを改めて否定した。

金の受け渡しが行なわれた場所によって金の趣旨が変わるというわけではないから検察側の立証における致命的な瑕とまでは言えないだろうが、「街頭で受理したことはない」のが事実なのだとするとなぜ取調べ段階でそれとは異なる供述が出てきたのか、ということは問題になろう。検察サイドからも次のような証言があったようだ。

 検事時代に田中の控訴審を担当し、捜査・公判記録を精査した弁護士の宗像紀夫(68)は言う。「5億円が田中側に渡ったのは間違いないが、検察のストーリーは不自然な印象がある。榎本証言の通りではないか」


さかのぼって第3回。当時朝日新聞社会部長だった佐伯晋氏が検事総長の布施健を密かに訪問したときのこと。

 同席した東京高検検事長の神谷尚男は、さらに踏み込んだという。「法技術的に相当思い切ったことをやらなければならないかもしれない。それでも支持してくれますか」
 「もちろん」と佐伯は答えた。
(中略)
 いま95歳の神谷は「佐伯さんと会ったのだろうが、記憶はなくなった。会う前に総長の腹は固まっていた。訪問がありがたかったか、といわれれば、そうでしょうね」と振り返る。

佐伯氏が2000年にこの訪問を明らかにしたところ、『SAPIO』が「与党内の一部勢力や検察の意図」に「メディアが全面的に協力した疑い」があると批判した、と続けられている。小沢一郎の疑惑をめぐっても検察とメディアの関係があれこれ取りざたされていることを考えると興味深い。
私人の犯罪ならともかく、公権力の中枢にいる人間の疑惑に対しては検察を支持し捜査を後押しするメディアがあってもよいだろうが、そうした方針は紙面(誌面)で公にされるべきで、秘密の訪問でのやりとりは不信をもたれるきっかけになってもおかしくない。