移民送り出し国だったころの日本

参考:
http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20090415/1239753036
http://plaza.rakuten.co.jp/intisol/diary/200904180000/


「法は守れ」「カルデロン一家は出て行け」と主張している方々に満州事変以降の日本の歩みをどう思うのか、聞いてみたいですな。九カ国条約のことはこの際問題にしないとして、石原莞爾のやったことは日本の法に照らしても違法だったし、天皇の命令なしに軍を「国外」にまで動かした林朝鮮軍司令官の行動も同様。処罰されてもおかしくないのに前者は参謀本部作戦部長まで、後者にいたっては総理大臣にまでなりましたが。
カルデロン一家は出て行け」と主張する(ないしそうした主張にシンパシーを感じる)グループと「カルデロン一家に在留特別許可を」と主張する(ないしそうした主張にシンパシーを感じる)グループとを対照した場合、前者の方に満州事変以降の日本の歩みを肯定・免罪・相対化する傾向が強くあることはことさら実証してみせる必要もないことでしょう。


ところで満州事変の背景の一つとして、当時の日本が移民送り出し国であったということをあげることができます。それより先、アメリカでは新移民一般の排斥とともに日系移民の排斥運動が展開され、1924年の移民法で大幅に減少、再び増えるのは50年代になってからです。
日系移民への規制が強化されてゆく過程では、「すでにアメリカに居住する者の妻や子ども、旅行者、学生などへの旅券の発行は制限されなかった」*1ことを抜け道として利用するケースがありました。今日の日本で外国人が不法滞在するケースと重なっていることがわかるでしょう。特に「写真花嫁」については、アメリカ人の目から見て「悪質な抜け道」と映ったであろうことは否定できません。今日における「偽装結婚」とどれほど違うのか、と問うことができます。
もちろん、排外主義者が移民の排斥を主張するのを利するような状況は当時の日系移民についてもありました。1891年、サンフランシスコ領事館の書記生(つまり日本人です)がシアトルその他の日系移民を調査した結果、約250人の移民のうち200人あまりは「醜業者に非ざれば博徒、若しくは無頼の徒にして、一定の職業を有せざる者」であり、10軒ほどある飲食店は「醜業婦これを営むあり、あるいは醜業婦の資金を利用して営業するものありて全数の過半数を占め」ていた、とされています。1908年に駐米日本大使の命で行われた調査でも、デンヴァーの日本人居住区について「一帯の光景いかにひいき目をもって見るも、健全なる人種の居住区とは思われず、特に夜に入りては、浮浪の徒等が怪しげなる服装のまま群れをなして」いた、などとされています。
のちに昭和天皇が「独白録」において「加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである」と述べたように、アメリカの移民排斥運動は日本において反米の世論を煽るのに利用されました。現在でも対米開戦の正当化に使われることがあります。当時のアメリカが移民、特に日系移民を排斥する際に用いた論法は今日の日本で移民や不法入国者、不法滞在外国人を排斥する論法とそっくりですが、当時の日本は「持たざる国」の権利を主張していたのです。「満蒙は日本の生命線」などという身勝手きわまる主張が(国内では)通用したのも「持たざる国」の権利がアメリカにおいて否定された、という認識があったからでした。

*1:飯野正子、『もう一つの日米関係史 紛争と協調のなかの日系アメリカ人』、有斐閣、第1章より。以下、引用はすべて同書第1章から。