「自己に向き合う」

 「あなたは以前、ユダヤ人は一度はああした悲惨な事態を経なければならなかった−−そう運命付けられていたんだ、といいましたね。あのとき、あなたは神の定めだった、と言いたかったんですか?」
 「そうだ。」
 「神とは何でしょうか?」
 「神とは、人間には理解のできない超越者だ。人間はただそれを信じることしかできない。
 彼の思考のなかにある、奇妙なねじれが面接のなかで繰り返し現われていた。今ここで、それが再び姿を現したようであった。この面接の最後の場面になって。
 「トレブリンカにも神はいましたか?」
 「ああ」と彼は言った。「じゃなきゃ、どうしてあんなことが起こったんだ?」
 「その神は悪い神だったんですか?」
 「いいや」と彼はゆっくりと答えた。「そんなことは私には分からない。両方の面があるんだよ。それで人間が法律を作ったのさ。神への信仰だって人間が作ったものだ−−つまり、そんなことはよく分かっていないんだ。分かっていることは、科学では説明のつかない物事があるってことだけだ。だから人間より上位の超越者が必要なんだ。だが、神に近づこうという目的を持っても、人間にそんなことができるのかね? 神になれるわけないじゃないか? そうは思わんかね?」
 「それは人によって、それぞれに違うとは思いませんか? あなたの場合には、真実を探求するということが、それにあたるとは思いませんか? 自分の内側に向き合うということですよ。」
 「自分の内側に向き合う?」
 「そう、自己に向き合う、ということです。この面接もはじめからそれを目的にしてきたんじゃないんですか?」
 彼の答えは、まるで機関銃のように自動的に返ってきた。その声には完全に抑揚がなかった。「私は、自分自身の意思でやったことに何らのやましさも感じていない。」それは彼が今までにも、幾度となく繰り返してきたフレーズだった。裁判のときにも、この何週間かの面接のあいだにも。しかし今度ばかりは、私は返事をしなかった。彼は私の反応を待った。部屋は静まり返った。「私自身は、誰一人としてわざと人を苦しめたことはない。」彼はモノトーンに言って私の反応を待った−−長い間。しかし、この面接が始まって以来、私ははじめて助け船をだすことをやめた。時間は過ぎていった。彼は両手で机の角を握り、まるで何かにしがみ付くかのように力を込めていった。手の骨が白く浮き出していた。再び静まり返り、私はただ待ち続けた。「確かに私はあそこにいた。」長い時間が過ぎて、まるで諦めたかのような疲れた乾いた声で彼は口を開いた。この短い言葉が出るまで、ほとんど三〇分のあいだが必要だった。
 「あぁ、つまり、事実としては私にも罪があった……。何故なら……。私の罪とは……。罪だなんて、この面接のあいだにはじめて言った言葉だな……。」彼は口を閉ざした。
 彼は「私の罪」という言葉をはっきりと口にしていた。おそらく、ついにその言葉を口にできた安心感からか、彼の身体から力が抜け、表情は和らいでいた。

ギッタ・セレニー、『人間の暗闇』、岩波書店、446-448ページ。この本は「ナチ絶滅収容所長との対話」という副題が示すように、ウィーン生まれのイギリスのジャーナリスト、ギッタ・セレニーがトレブリンカ収容所長だったフランツ・シュタングルに対して行なったインタビューを柱としたもの。いうまでもなくトレブリンカは90万人が犠牲になったとされる絶滅収容所で、シュタングルは歴代の所長のなかでももっとも長い任期を務めた。またそれ以前に、T4計画にも警察側の担当者として関わっていた。「10万の単位」でのユダヤ人や障害者の殺害に関わった男である。セレニーが結果的に70時間に及ぶインタビューをはじめる前、彼は終身刑の判決を受け控訴手続きをとっているところだった。
「事実としては私にも罪があった」・・・・・・何十万人もの死にみあう言葉ではもちろんないだろう(そもそもそんな言葉などあり得るのか?) しかしいかにささやかであったとしても、この言葉が(あるいはこの言葉を口にさせるに至るプロセスが)大量虐殺なき世界への一歩であることは否定できまい。死刑になったアイヒマンはこんな言葉を残すことはなかった。


シュタングルはセレニーによる最後のインタビューの翌日、心筋梗塞で死亡した。独房にあったヤヌシュ・コルチャック*1の童話には「彼がその本を私に示したときとは違って、実に多くの書き込みをしたメモが挟まっていた」とされている。


なおアイヒマンに関してはイスラエル警察による尋問記録が刊行されている。

いずれ「別館」の方で取り上げたいと思っている本の一つ。保阪正康氏による書評がある(魚拓)。

*1:小児科医・童話作家。自らが運営していた孤児院の200名の子どもとともにトレブリンカで殺害された。ただし、これはシュタングルの着任前のことであると推定されている。