被害者としての自認を阻むもの


先週 NHK Eテレで放送されていた「ハートネットTV」の「シリーズ 貧困拡大社会」、「相次ぐ若者の過労死」「若者を追い詰める“ブラック企業”」の2回分を(録画しておいて)見ました。
http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2012-10/22.html
http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2012-10/23.html
一般論としては報道やルポルタージュ本、ネットの情報等を通じて知っていることを上回るような知見を与えてくれるものではありませんでしたが、取材を受けた過労死者・自殺者遺族の姿を見ると、劣悪な労働環境が一人の人間の命を奪ったという事態の重さを改めて痛感します。
とりわけ印象的だったのは、過労死した青年と同期入社だったという取材対象者の言葉です。彼自身、入社2年でうつ病を発症し、休職と復職を繰り返したあげく退社を余儀なくされています。番組では彼が生活保護の申請に向かうところを紹介していました。その彼にして、会社を恨む気にはなれない、というのです。「一緒に働いた職場の仲間たちが好きだったのが一番大きいところかなと思います」、と。このことばは、客観的に見てひどい目にあっているからといって、自分自身を「被害者」としてアイデンティファイすることが常にできるとは限らない、ということを示しているのではないでしょうか。ある出来事を自分の生活史のなかで「被害体験」として位置づけることは、時として苦痛を伴うことであり得ます。特に、社会の中で理解されやすい「被害者」の類型に当てはまらない場合に。心理学的には認知的不協和理論で説明できることではないかと思いますが。戦没者の遺族が当時の指導者の戦争責任追求に必ずしも熱心でない(それどころか否定的であったりもする)こと、日本軍「慰安所」制度の加害性が明確に問題化されて以降も日本人元「慰安婦」が公に損害賠償を求めた事例がないこと、なども同じような観点から考えてみることができるでしょう。
もちろん、自分自身の体験をどう受容し、自身の生活史にどう位置づけるかを決定する権利は当事者にしかありません。ですから、「あなたは被害者なのだ、それを認めなさい」と強要することはできません。とはいえ、一人が「被害者」としてのカムアウトを回避することによって、別の一人が「被害者」としてカムアウトすることが困難になってしまうということもあるでしょう。とすれば、私たちは最低限、次の二つのことに留意する必要があります。第一に、犠牲者非難のように、「被害者」としての名乗り出を困難にする社会的要因を排除すること。第二に、被害者の名乗り出がないからといって「大したことはなかったのだ」と速断しないこと、です。