吊るすのはいつでもできる、考えるのはいましかできない

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20090920/p1
http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20090921/p1
http://www.egawashoko.com/c006/000308.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.egawashoko.com/c006/000308.html
http://www.egawashoko.com/c006/000307.html
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 日本には法律上死刑制度がある。判決は、三権分立の制度の中で、裁判所が三審制という慎重な審理課程を経て確定する。その確定判決を、法務大臣の思想信条や気持ちによって、勝手に骨抜きにしてしまっていいのだろうか。
(http://www.egawashoko.com/c006/000307.html)

「骨抜き」っていうけど、別に恩赦で釈放されるといったはなしではないんで、たかだかその法相の在任中は刑が執行されない可能性が高い、というだけのことでしかない。そもそも、先日も指摘したように、日本の死刑囚は絞首刑という刑罰以上の不当な人権の制約を受け続けているのが実態であり、死刑制度を「骨抜き」にしているのが問題だというのなら、法で定められた罰以上の不当な人権侵害だって死刑制度の「骨抜き」というべきである*1。しかも面会の過剰な制限に代表されるこの人権侵害は、冤罪の発見や重大犯罪の真相解明*2といった公益をも損なっている可能性が高いのである。

 死刑の執行に法務大臣の命令が必要なのは、手続きに間違いがないかを入念にチェックしたり、新たな事実が判明したりして再審が提起されるなど判決が確定した後で考慮すべき事情ができた場合に、再度裁判所の判断が出る前に執行されてしまうようがないようにするためで、法務大臣に「第四審」の役割を期待されてのことではないはずだ。
(http://www.egawashoko.com/c006/000307.html)

ええそのとおりですが、千葉新法相の資質を云々する前にすでに「手続きに間違いがないかを入念にチェックしたり、新たな事実が判明したりして再審が提起されるなど判決が確定した後で考慮すべき事情ができた場合に、再度裁判所の判断が出る前に執行されてしまうようがないようにする」という法相の任務を踏みにじった男がいましたよね? そう、飯塚事件の死刑囚の死刑執行にゴーサインを出した男ですが。結果がどうなったかはともかく、同時期にDNA鑑定が行なわれた足利事件に関して再審への道が開かれることが事実上明らかになっていたにもかかわらずゴーサインを出した森元法相は立派な法相だったとでも?


麻原彰晃のような“大悪人”の存在は死刑存置論への強力な論拠になると思っているひとが少なくないようだが、100万の単位で被害者がいるルワンダでの大虐殺やポル・ポト派による大虐殺を裁く法廷はいずれも死刑を採用していない。万の単位、10万の単位、100万の単位、1,000万の単位での大量死に責任がありながらそもそも法の裁きすら受けていない人間は20世紀以降に限ってもたくさんいるのだ。オウムによる犯罪の直接の被害者やその遺族が「麻原がさっさと死刑にならないのは不条理だ」と感じる権利は認められるべきだが、そうでない人間はまずは「万の単位での大量殺戮に責任がありながら何らの処罰も受けなかった」といった事態にこそ不条理さを感じるべきではないのか? だって、そういう不条理を許しているのは究極的にはわれわれひとりひとりなのであるから。

*1:骨抜きというより無理矢理余分な骨を突っ込んでると言うべきなのかもしれないが。

*2:死刑囚が捜査段階および公判において語らなかった事情が明らかになる可能性を閉ざすものだ、という意味で。