痴漢事件で最高裁が逆転無罪判決
asahi.com 2009年4月14日 「痴漢事件で防衛医大教授に逆転無罪 最高裁が判決」(魚拓)
有罪判決を破棄したうえ差し戻し、ではなく最高裁自ら無罪の判決。裁判員制度の運用開始を控えて、この種の事件についての一定の方針を示そうとする意図が最高裁にあったとみても、さほどうがちすぎではないだろう。
判決要旨は次の通り。
【判決理由】
弁護人らの主張は刑事訴訟法が定める上告理由に当たらないが、職権で調査すると原判決や1審判決は破棄を免れない。
事実誤認の主張に関する審査は、最高裁が原則として(法令違反の有無を審理する)法律審であることにかんがみ、原判決の認定が論理則、経験則等に照らして不合理といえるかどうかの観点から行うべきであるが、本件のような満員電車内の痴漢事件は物的証拠等の客観的証拠が得られにくく、被害者の供述が唯一の証拠である場合も多い上、被害者の思い込みその他により被害申告がされて犯人と特定された場合、その者が有効な防御を行うことが容易ではないという特質が認められることから、これらの点を考慮した上で特に慎重な判断が求められる。
被害を受けたとする女性は1審公判や検察官調書において、次のように供述している。
「ドア付近に立っていると、向かい合う被告が私の頭越しにかばんを網棚に載せ、お互いの左半身がくっつくような状態になった。A駅を出てから下着の中に手を入れられるなどした。触られている感覚から犯人は正面にいる被告と思った。B駅でホームに押し出された。被告を見失い迷っているうち、ドアが閉まりそうになったので同じドアから乗り、また被告と向かい合った。B駅を出た後もスカートの中に手を入れられるなどした。警察で説明できるように状況を確認すると、被告の左手で触られていることが分かった。C駅に着く直前、ネクタイをつかむと触るのをやめた」
1審判決は、女性の供述内容は具体的、迫真的なもので不自然、不合理な点はないなどとして信用できるとし、原判決もこれを是認した。
被告は一貫して犯行を否認し(有罪の)証拠は女性の供述のみで、客観的証拠は存しない。被告に前科・前歴はなく、この種の犯行を行うような性向をうかがわせる事情も見当たらない。
したがって女性の供述の信用性判断は特に慎重に行う必要があるが、(1)被害は執拗で強度なものであるにもかかわらず、車内で積極的な回避行動をとっていない(2)そのことと、その後の被告に対する積極的な糾弾行為とは必ずしもそぐわない(3)B駅でいったん下車しながら車両を替えることなく、再び被告のそばに乗車しているのは不自然である−などの点を勘案すると、B駅までに受けたという被害に関する供述の信用性には、なお疑いをいれる余地がある。
そうすると、起訴状記載の被害(B駅からC駅までの間の強制わいせつ行為)に関する供述の信用性についても、疑いをいれる余地がある。
女性の供述の信用性を全面的に肯定した1審判決と原判決の判断は、必要とされる慎重さを欠くものというべきである。被告の犯行と断定するには合理的な疑いが残るというべきで、1審判決と原判決には重大な事実誤認があり、破棄しなければ著しく正義に反する。本件は犯罪の証明が十分でないとして無罪の言い渡しをすべきである。
【那須弘平裁判官の補足意見】
冤罪(えんざい)は国家による人権侵害の最たるもので「疑わしきは被告の利益に」の原則も、有罪の判断に必要とされる「合理的な疑いを超えた証明」の理論も、冤罪防止のためである。痴漢被害者が公判で供述する場合、検察官と入念に打ち合わせするので、供述の内容が「具体的」「迫真的」「不自然・不合理な点がない」となるのも自然の成り行きである。被害者の主張が正しいと即断することには危険が伴い、「合理的な疑いを超えた証明」の視点から厳しい点検が欠かせない。
【近藤崇晴裁判官の補足意見】
被害者と被告の供述が「水掛け論」になり、それぞれの内容をその他の証拠に照らして十分検討しても、それぞれに疑いが残り、結局真偽不明と考えるほかないのであれば、犯罪は証明されていないことになる。また被告の供述は頭から疑ってかかるというようなことがないよう、厳に自戒する必要がある。
【堀籠幸男裁判官の反対意見】
多数意見は女性の供述が信用できない理由として、車内で積極的な回避行動をとっていない点を挙げるが、身動き困難な超満員電車の中で気後れや羞恥心などから我慢することはあり得る。その後、我慢の限界に達し、犯人を捕らえるため、ネクタイをつかむという行動に出たことも十分にあり得る。再び被告のそばに乗車した点も女性の意思ではなく、押し込まれた結果にすぎない。
多数意見が指摘する理由は薄弱であり、原判決が不合理というには、説得力に欠ける。原判決に事実誤認はない。
【田原睦夫裁判官の反対意見】
女性の供述が信用できないということは虚偽の被害申告をしたということである。弁護側は学校に遅刻しそうになったから被害申告したと主張するが、合理性がない。
また虚偽申告の動機として、一般的には(1)示談金を取る目的(2)車内で言動を注意された腹いせ(3)痴漢被害に遭う人物であるとの自己顕示−などが考えられるが、本件でそれらをうかがわせる証拠はない。原判決を破棄することは許されない。
被告人が無罪であることはもちろん直ちに被害それ自体が存在しなかったということを意味しないのであって、反対意見のうち「気後れや羞恥心などから我慢することはあり得る」「女性の意思ではなく、押し込まれた結果にすぎない」などは一般論としてはうなづけるものではあるように思われる。