説明の義務を負うのはどっち?


http://www.asahi.com/national/update/0415/OSK200904150071.html
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http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/national/update/0415/OSK200904150071.html

Apeman 当然の結果/刑事被告人の権利なんてのは義務教育で教えるべきことであって、弁護団弁護士会がメディアに向かって釈明しなきゃならないことじゃない 2009/04/15
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mustelidae 何がどういけなかったのかを一般人向けに説明する活動もするといいと思う。「あの犯人はどう見たって最悪なやつ。なのに」と考えている人は多いはずなので。/義務教育で誰もが得心できる簡単な話だとは思いません。 2009/04/15

それぞれ「/」の後は追記した部分。つまり私が「当然の結果」とコメントした後 id:mustelidae 氏の「何がどういけなかったのかを一般人向けに説明する活動もするといいと思う。「あの犯人はどう見たって最悪なやつ。なのに」と考えている人は多いはずなので。」というコメントを読んで「刑事被告人の権利なんてのは義務教育で教えるべきことであって、弁護団弁護士会がメディアに向かって釈明しなきゃならないことじゃない」と追記。これに対して(だよね? 多分)氏が「義務教育で誰もが得心できる簡単な話だとは思いません。」と追記した、という流れ。


さて、どんな場合でも「わからない」と言った側が説明を受ける権利を有する(言われた側が説明する義務を負う)、なんてことはないのであって、わかっていて当然のことに異を唱えるならば、「なぜ?」という問に答える義務を負うのはその当たり前のことに異を唱えている人びとだ。日本国憲法で規定された刑事被告人の権利(直接関連してくるのはこの場合第37条2項だろう)をきちんと理解するのは大人の義務であって、「説明しろ」と要求する前に「何がどう理解できないのか」をきちんと言語化する努力をすべきではないのだろうか。


といっても、問題は基本的人権についての「知識」の有無ではもちろんない。
だいたい、「殺人犯であっても裁判においては弁護の手を尽くさねばならない」というのはそれほどのみ込みにくい、不条理なことがらなんだろうか? 現在、カンボジアではクメール・ルージュ時代の国家犯罪を裁く特別法廷が開かれているが、この法廷ではもっとも重い量刑でも終身刑である。ルワンダ特別法廷にも死刑はなかった。何十万、あるいは100万人を超える犠牲者を出した大虐殺の裁判においても「死刑」はない、という不条理さに比べれば「死刑判決が予想される裁判で目一杯の弁護をしよう」とすることなど当たり前すぎて、一体何がわからないのかわからない。日本は「大量破壊兵器」というでっちあげではじめられた戦争に加担したが、当時の首相の責任を追及しようという運動が盛り上がっているとはいい難い。でっちあげの理由で戦争初めて何十万人もが犠牲になったというのに誰一人刑事責任を追及されないという恐るべき不条理に比べれば、万が一弁護団の狙いがあたったとしても死刑から無期懲役になるに過ぎないという事態がなぜ我慢できないのか? 何十万、何百万の犠牲者がいる事件であっても死刑は回避しよう、というのがいまやグローバル・スタンダードになりつつあるわけだ。だとすれば、「なぜ?」を説明しなければならないのは、何が何でも被告人を吊るさなければ気がすまない、という人びとの方であるはずだ。
さらに、メディア報道を通じて「あの犯人はどう見たって最悪なやつ」と思ってしまうのはまあ無理もない(私だってそう思う)として、そう思ってしまう自分から距離がまったくとれていないというのはどういうことか? だって、捜査当局と弁護側では圧倒的に情報収集能力とかメディアに対するPR能力に格差があって、我々は捜査当局主導のニュースをさんざん注ぎ込まれたわけでしょ? 「ひどい事件だな」と思うのはいいとしてもせめて裁判がすべて終わるまではその判断をカッコにいれてものを考える程度の分別は持っているべきじゃないんだろうか。大人なんだからさ。