One ならざるがゆえに One と説く


別館の方に時おりコメントを下さる vagabondさんのブログ、「普通の国、日本を目指して」のエントリ、「We Are One!・・・日本で云える日は来るか?」。先日別館の方に頂戴したコメントと関連する内容を含んでいる。

結論的に云えば、アメリカにおいては意見の違いやその幅は比較的少なく、例えばベトナム戦争では国論は二分されたが、戦争が済んだらそれは解消した(尾を引いている部分はあるだろうが日本からは見えにくい)。
イラク戦争で割れているがこれも解決したら「一つ」になるだろう。

いやいや。アメリカには日本ではほとんど政治的な争点となっていないトピックでの大きな分断がありますよ。銃規制、進化論教育、人工妊娠中絶です。ヴェトナム戦争の場合、まだしも「反共」という建前が広く共有されていたわけですが、開戦理由が「でっちあげ」だったイラク戦争の評価をめぐる議論が本格化するのはむしろこれからでしょう。この戦争をキチンと問題化できるかどうか、アメリカ社会の力が問われているとも言えます。ヨーロッパだって「統合」かナショナリズムかという対立は(地域によって温度差は異なるものの)かなり根深い。どの社会もその歴史に由来する固有の対立軸を持っているものであり、日本社会の場合その一つが軍事をめぐるものであるというのは、日本の近現代史に照らせば不思議なことではないでしょう。「つまり意見の不一致は、その原因がなくなれば、自然と解消する」というのはどこだって同じことであり、日本の場合は軍隊をめぐる大きな対立を生む「原因」がまだなくなってないのだ、と考えれば「日本特殊論」に傾く必要はありません。逆に、大きな分断を社会がかかえていなければ、リーダーが "One" を強調する必要もない、というものです。
また、9条をめぐる争いも実際には「改憲再軍備(国軍化)」派対「護憲=自衛隊廃棄」派の単純な対立ではなくて、その中間に「9条消極的容認=自衛隊積極的容認」派と「9条積極的容認=自衛隊消極的容認」派という分厚い層があったはずです。こういう中間層に対して「9条は変えねばならない」という理由を理念と現状分析の面で説得的に改憲派が主張できているか? といえば「ノー」じゃないですかね。ガチで「9条を変えるか、自衛隊を廃棄するか」の選択が迫られた場合前者が勝つだろう、という状況はとっくに成立しています。そうした選択を避けつづけてきたのがコアな護憲派だけの力によるはずはないのであり、「現状でもなんとかなっている」と考える人々が多数派だからでしょう。
さらに「一」という表現をズバリ用いるかどうかは別とすれば、実質的に同じような表現は日本でも用いられてきました。記憶に新しいのはこれでしょう。

 また、昨秋からの世界的な金融危機に関し「多くの人々が困難な状況におかれていることに心が痛みます」と気遣い、「国民の英知を結集し、人々の絆(きずな)を大切にしてお互いに助け合うことによって、この困難を乗り越えることを願っています」と期待を込めた。
毎日新聞 2009年1月1日 「天皇陛下、金融危機の困難な状況を気遣う」)

「施政方針演説 国民 団結」でググって見るとこんな例も見つかります。

 しかし,この議場でかつて私は申し述べたことがございますが,このような重大な困難と危機の時にこそ,日本人は常に大局を失わず,団結を強固にして苦難を乗り切ってきたのであります。
第108回国会における中曽根内閣総理大臣施政方針演説

首相在任当時はまさに左翼の宿敵であった中曽根首相ですが、私が記憶する限りこの部分が問題にされたことはありません。古い例ではこんなものが。

 ここに至る道は決して平たんではなく、多くの困難が予想されます。しかし、国民の団結と信頼を背景に、外交も、文教も、治安も、経済も、政治のすべてがここに集中するならば、必ずや輝かしい将来が約束されるものと確信いたします。このことは、一内閣の目標たるにとどまりません。私は、この信念のもと、みずからを省み、今後の精進を誓うものでございます。
(http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pm/19640121.SWJ.html)

1964年、第46回国会での池田首相の施政方針演説より。高度経済成長のために「国民が一つに」なった時代、ですね。特に自民党の政治家が口にする「一」が批判の対象となるのは「単一民族」発言に代表されるように、「一致団結」の前提として現実に存在する多様性を切り捨てようとするからでしょう。


追記:オバマの就任演説について、"One" から抜け落ちていることについての指摘。