嘘の「個体モデル」と「関係モデル」

年末に今年の抱負として宣言した、「供述分析」研究シリーズの第1回です。


浜田寿美男発達心理学・法心理学)氏の「供述分析」は、直接的には冤罪ないし冤罪が疑われる刑事裁判の供述調書を鑑定するなかで練り上げられていった方法論であるが、その射程は単に冤罪事件にとどまらない。被疑者・被告が真犯人である場合でも、捜査官に誘導されて語られた動機が量刑を左右することがある(殺人か傷害致死かを分けるような場合も含めて)。あるいは捜査側のリークをもとに報道された動機が事件の理解を歪めることもあろう。また裁判という場を離れて歴史家やジャーナリストの聞き取りにも、さらには(自発的に書かれるはずの)回想記や手記といった形式の“証言”にも、「供述分析」の問題意識は示唆をもつだろう。


虚偽自白とは真犯人でない者が犯行を自白してしまうことである。昨年は富山事件(強姦事件の元服役囚に再審で無罪判決)や志布志事件の影響で警察・検察の取調べがはらむ問題が広く報道されたため、あるいは近年痴漢冤罪事件が注目を浴びているため、多少はこの現象の認知も広がったのではないかと思われるが、それでも「拷問でもされたのでない限り、自分に不利な嘘を吐くはずがない」という常識は−−それ自体としては相当の妥当性を持つだけになおさら−−強固なのではないだろうか。なぜなら「うそは自分勝手な思いで、自分自身の利益のために、自分の側から積極的に他者をだますもの」だという観念、「個体の側の都合や欲求がさきにあって、それに主導されるかたちでうそがたくらまれるのだ」という考え(『自白の心理学』、51頁)があるからだ、と浜田氏は指摘する。このような嘘についての観念を浜田氏は「うその個体モデル」と呼ぶ(同所)。
だが心理学者アッシュが行なった実験(線分の長さを判断する課題においてサクラにわざと誤答をさせると、被験者がその嘘に同調してしまう現象を明らかにした)は、人間が「関係の磁場」のなかで−−他人を喜ばせたい、他人に悪く思われたくない…といった意識から、なんの得もない嘘をつくことを示している。嘘が「関係の場のなかで生まれる」というモデルは「うその関係モデル」と呼ばれる(同書、54頁)。もちろん「関係の磁場」の強さはさまざまであり、アッシュの実験や強圧的な取調べの結果としての嘘は「磁場」が非常に強く、「完全に関係の側に主導権を握られた受動のうそ」であるが、利己的な嘘にしても「自分の側が主導権を握って、関係の場を能動的に支配」しようとする現象であって、他者との関係のなかで嘘が生まれることに変わりはない。つまり「うその関係モデル」の方が一般的なモデルなのである。
この「関係モデル」は取調べのように目の前に相手がいる場合だけでなく、回想記や手記さらには日記にも適用可能だろう。自分の体験を自分の発意で書き留める時でさえ、人間はそれを読む者(自分自身を含む)の目を意識する。他人が私をどう意識するかについての意識、が私の書くものには入り込むのである。


「うその関係モデル」のもう一つの利点は、嘘と悪意という強固な観念連合を弱めることができるところにある。犯罪被害者の証言とてもちろん完全無欠なものではあり得ないから、特に刑事裁判の場では厳しく吟味されねばならない。しかし「うその個体モデル」を採用する限り、証言の吟味には証言者の悪意を疑うという側面がどうしても出てくる。場合によってはそのことが、被害者証言の吟味を妨げる心理的な障壁となることもあろう。また、証言者の方も自分の悪意が疑われていることを感じ取ってしまえば、聴く者と語る者との人間関係は大きなダメージを受けてしまう。しかし「うその関係モデル」が(記憶心理学の知見とともに)広く認知されれば、襲侵的でないしかたで被害者(や善意の目撃者)の証言を吟味する手法、というか作法を編み出すことも可能なのではないか。