取り調べへの弁護士立会いについての連載

朝日新聞』の連載「聖域 取り調べの弁護士立ち会い」(全7回)が昨日完結しました。

digital.asahi.com

第2回以降のリンクは省略します。この第1回の記事の末尾には、先日違法な取り調べと津地裁で損害賠償を命じられた三重県警の取り調べの録音が付されています。

特に注目に値するのは第1回で紹介されている銃刀法違反容疑事件の取り調べ。モデルガンについて「ずっしりしている感じでしたか」「してるんじゃないですか」というやり取りを調書では「ほかのエアガンに比べてずっしりと重かった」とまとめられていた、という。警察官が立件できるよう、有罪にできるように脚色して調書をまとめていることがよくわかります。

SNSでの反響が私の見た範囲で一番大きかったのが第6回、取り調べる側の言い分を紹介した回です。足利事件などを記者が引き合いに出すと「冤罪(えんざい)を生んだことは組織として反省し警察の取り調べに大きな疑念を抱かせたことは真摯(しんし)に受け止めるべき」と述べてはいますが、結局は「どのような条件を付けたとしても、取り調べの立ち会いを認めることには反対」というのですから、「ほんとうに悪かったと思っているのか?」「疚しいことがあるから反対するんじゃないのか?」と取調室で追及してやりたくなりますね。23日ぶっ続けで。

この回、『朝日新聞』のちょっとした意地の悪さにクスっともしました。

「恫喝や人格を否定する発言は刑事失格」と久保さんは言います。記事の後段では、実際に違法とされた取り調べの音声動画を紹介しています。

 

いや、穫るなよ(Part II)

月曜日

2023年11月14日放送の「クローズアップ現代+」(NHK総合)、テーマは「マグロが捨てられる!?海の恵みをどう守るか」でした。

www.nhk.or.jp

番組サイト「クローズアップ現代全記録」では番組内容を書き起こした記事を読むことができます。まあ基本的にはタイトルを見て予想された通りの内容でした。識者による解説はかなり水産庁に甘く、他国のせいにする傾向が強いようにも感じましたが、いちおう「ヤバい現状」の一端くらいは伝わるつくりだったかな、と。番組中で紹介される資源量データによれば近年でもまだ20世紀後半(それ以前については紹介されない)の最盛期に比べれば半分程度なのですが、にもかかわらず簡単に「2010年以降、回復傾向にあります」と言ってしまうあたりは相変わらずですね。まだたかだか10年ほどのトレンドなので(これに近い“回復”なら1990年代前半にも見ることができます)もっと慎重に判断すべきではないでしょうか。

いや、穫るなよ

金曜日

www.toonippo.co.jp

読むには会員登録が必要ですが、この記事は Yahoo!ニュースにも掲載されています。

もちろん「未利用」だったのは魚体が小さいからです。生きていればやがて十分な大きさの成魚に育ったであろう魚を獲ってラーメンのスープに加工しているわけですから、エースコックマーケティング副本部長の「食品ロスという身近なテーマから、SDGs(持続可能な開発目標)に取り組んでいく」というコメントには「じゃあ穫るなよ」という感想しか湧いてきません。

天王寺動物園で珍事

火曜日

www.sankei.com

当ブログで使用しているチンパンジーの写真は天王寺動物園で撮影したものですが、その天王寺動物園チンパンジーが逃げ出す事故があったとのことです。

チンパンジーの犬歯は人間とは比べ物にならない大きさですから、噛まれた男性の怪我が深刻でないことを祈りたいと思います。

菊池事件、弁護側が立証計画提出へ

月曜日

nordot.app

www3.nhk.or.jp

菊池事件の第4次再審請求で弁護側が立証の柱に据えるのが、元死刑囚(執行済)の親族の証言に関する心理学者の鑑定であることが報じられました。上記2つの記事では鑑定書の詳しい内容はわかりませんが、「菊池事件公開学習会」として Youtube に公開されている動画でそれと思しき内容が紹介されています。

www.youtube.com

こちらの動画の1時間18分あたりから大槻倫子弁護士が鑑定書について講演していますが、それによれば鑑定にあたったのは京都大学の大倉得史氏だということです。

これまでの再審請求事例では裁判所は心理学者の鑑定を評価しない傾向にあるようです。飯塚事件と並びすでに死刑が執行済の事件で再審へのハードルは一層高いと思われますが、裁判所の評価に注目したいと思います。

 

「袴田事件57年」

TBSが8月6日に放送した袴田事件についてのドキュメンタリーを関西ではMBSが9月17日に放送しましたので視聴しました。

www.tbs.co.jp

先日亡くなられた桜井昌司さんの追悼番組が深夜に放送されるのではないか、とこの一ヶ月アンテナをはっていたので見つけることができましたが、深夜というより明け方の午前5時からの放送でしたので危うく見落とすところでした。

大崎事件弁護団の鴨志田弁護士や14年に静岡地裁で裁判長として再審開始の決定を出した村山浩昭弁護士(現)に取材して、再審をめぐる制度的な問題点を指摘した点は、特に目新しい情報があったわけではありませんが、法改正のための世論喚起のために必要なことをきちんととりあげたと評価できます。ただ、この番組に限らず再審開始決定前後の報道全般に言えることとして、最高裁によって絞られた論点すなわち「5点の着衣の血痕の色」に疑惑が限定されてしまい、他にも多数ある捜査・裁判の問題点がスルーされがちという問題がありそうです。

たしかに再審開始の決め手になったのは「血痕の色」問題であり、また他の問題点と切り離して単独でとりあげてもわかりやすいというメリットもあるのでしょう。しかし当事者や弁護団、支援者が感じたであろう「なぜこれほど多くの問題点が看過され続けるのか?」という憤りは伝わらないのではないでしょうか。

無実が確定した折にはぜひ、冤罪としての袴田事件の全貌をとりあげる番組が制作されることを期待したいと思います。

「私のままで走りたい」

木曜日

-NHK Eテレ 2023年8月11日 「ドキュランドへようこそ 私のままで走りたい―性別を疑われた女性アスリートたち―」

スポーツにおける「性別」というカテゴリーがはらむ問題をとりあげたドキュメンタリー。原題は「カテゴリー:女性」。「女子スポーツ」というカテゴリーを守るため選手たちに「全裸での検査」や侵襲性のある医学的介入などの人権侵害を加えてきた(いる)歴史が語られる。

この番組はシス女性の健常者選手をとりあげているが、多くの視聴者は関連する2つの問題を直ちに想起するだろう。一つはマルクス・レーム選手のように一般カテゴリーで好成績をあげた障害者アスリート。レーム選手は彼の記録が「ハイテク義足」のおかげではないことを証明するよう要求された。もう一つはトランスジェンダー選手の処遇、実質的にはトランス女性アスリートの扱い、という問題だ。国や地域、競技種目によって実情はさまざまだが、トランスジェンダー差別において頻繁に言及される話題の一つとなっている。

番組が指摘するのは「女性/男性」というカテゴリー分けが決して自明のものではないこと、またスポーツにおける「女子/男子」というカテゴリー分けが必要十分な合理性をもつわけでもないこと、にもかかわらず「女子スポーツ」というカテゴリーを維持しようとすることが一部の選手たちの尊厳を犠牲にしていること、そうした犠牲がもっぱら有色人種の選手に押し付けられている(そして貧困ゆえに競技からの排除が一層大きな打撃になることがある)こと、「女子」というカテゴリーを守るために引き合いに出される「科学的根拠」の恣意性……などだ。

一部の競技では体重による階級分けが行われているが、身長によって階級を分けている競技はない。しかしバスケットボールやバレーボールにおいて高身長の選手が享受する有利さは、陸上競技において高テストストロンの女性選手が享受する有利さよりも明白だろう。身体的な卓越性は通常その選手の天分として祝福されるのに、それが「女性/男性」というカテゴリー分けを脅かす場合にのみ「チート」扱いされる。原題競技者の多くはハイテク技術を応用したスポーツ用具の恩恵を受けているが、それが「障害者/健常者」というカテゴリー分けを脅かす場合には懐疑の対象となる。スポーツにはさまざまな不公平が組み込まれているにもかかわらず、その一部だけが「問題化」しその他は看過されるというメタレベルの不公平があるわけだ。

ではカテゴリー分けを精緻化すれば問題が解決するのか、と言えばそう簡単ではないだろう。複数の基準に従ってカテゴリーを細分化すれば各カテゴリーごとの選手層は薄くなる。多くの関心を集めるカテゴリーとそれ以外のカテゴリーの格差は大きなものになるかもしれない。となれば競技としての成立が難しくなることもあるだろう。

この点で示唆に富むインタビュー記事が『朝日新聞』に掲載された。

-朝日新聞デジタル「Think Gender」2023年7月4日 「激化するトランス女性へのバッシング スポーツ参加は「ずるい」のか」

スポーツ社会学者の岡田桂氏が指摘するのは、スポーツの価値がいまの社会で極めて大きい(さまざまなライフチャンスに繋がる)からこそ「ずるい」という声が出てくる、ということだ。このインタビューで問題にされているのはトランス女性競技者だが、同じことは障害者アスリートにもDSDとされる女性アスリートにも言えるだろう。(熱中症のリスクがもはや無視できないほどになってる「夏の甲子園」を変えられない理由にも通じるところがあるだろう。)

もちろん、人為的にスポーツが持つ価値を切り下げることが現実的な解決策というわけでもないだろう。しかし「スポーツに秀でていることが高い価値を持つ社会」というのが決して必然的な人間社会のあり方ではない、ということは頭に入れておく必要があるだろう。つまり私たちがスポーツを通じてライフチャンスを掴んだり楽しんだりする代償として、少数者の尊厳を毀損することは許されるのか? という問いを私達は逃れることができない、ということだ。