「私のままで走りたい」

木曜日

-NHK Eテレ 2023年8月11日 「ドキュランドへようこそ 私のままで走りたい―性別を疑われた女性アスリートたち―」

スポーツにおける「性別」というカテゴリーがはらむ問題をとりあげたドキュメンタリー。原題は「カテゴリー:女性」。「女子スポーツ」というカテゴリーを守るため選手たちに「全裸での検査」や侵襲性のある医学的介入などの人権侵害を加えてきた(いる)歴史が語られる。

この番組はシス女性の健常者選手をとりあげているが、多くの視聴者は関連する2つの問題を直ちに想起するだろう。一つはマルクス・レーム選手のように一般カテゴリーで好成績をあげた障害者アスリート。レーム選手は彼の記録が「ハイテク義足」のおかげではないことを証明するよう要求された。もう一つはトランスジェンダー選手の処遇、実質的にはトランス女性アスリートの扱い、という問題だ。国や地域、競技種目によって実情はさまざまだが、トランスジェンダー差別において頻繁に言及される話題の一つとなっている。

番組が指摘するのは「女性/男性」というカテゴリー分けが決して自明のものではないこと、またスポーツにおける「女子/男子」というカテゴリー分けが必要十分な合理性をもつわけでもないこと、にもかかわらず「女子スポーツ」というカテゴリーを維持しようとすることが一部の選手たちの尊厳を犠牲にしていること、そうした犠牲がもっぱら有色人種の選手に押し付けられている(そして貧困ゆえに競技からの排除が一層大きな打撃になることがある)こと、「女子」というカテゴリーを守るために引き合いに出される「科学的根拠」の恣意性……などだ。

一部の競技では体重による階級分けが行われているが、身長によって階級を分けている競技はない。しかしバスケットボールやバレーボールにおいて高身長の選手が享受する有利さは、陸上競技において高テストストロンの女性選手が享受する有利さよりも明白だろう。身体的な卓越性は通常その選手の天分として祝福されるのに、それが「女性/男性」というカテゴリー分けを脅かす場合にのみ「チート」扱いされる。原題競技者の多くはハイテク技術を応用したスポーツ用具の恩恵を受けているが、それが「障害者/健常者」というカテゴリー分けを脅かす場合には懐疑の対象となる。スポーツにはさまざまな不公平が組み込まれているにもかかわらず、その一部だけが「問題化」しその他は看過されるというメタレベルの不公平があるわけだ。

ではカテゴリー分けを精緻化すれば問題が解決するのか、と言えばそう簡単ではないだろう。複数の基準に従ってカテゴリーを細分化すれば各カテゴリーごとの選手層は薄くなる。多くの関心を集めるカテゴリーとそれ以外のカテゴリーの格差は大きなものになるかもしれない。となれば競技としての成立が難しくなることもあるだろう。

この点で示唆に富むインタビュー記事が『朝日新聞』に掲載された。

-朝日新聞デジタル「Think Gender」2023年7月4日 「激化するトランス女性へのバッシング スポーツ参加は「ずるい」のか」

スポーツ社会学者の岡田桂氏が指摘するのは、スポーツの価値がいまの社会で極めて大きい(さまざまなライフチャンスに繋がる)からこそ「ずるい」という声が出てくる、ということだ。このインタビューで問題にされているのはトランス女性競技者だが、同じことは障害者アスリートにもDSDとされる女性アスリートにも言えるだろう。(熱中症のリスクがもはや無視できないほどになってる「夏の甲子園」を変えられない理由にも通じるところがあるだろう。)

もちろん、人為的にスポーツが持つ価値を切り下げることが現実的な解決策というわけでもないだろう。しかし「スポーツに秀でていることが高い価値を持つ社会」というのが決して必然的な人間社会のあり方ではない、ということは頭に入れておく必要があるだろう。つまり私たちがスポーツを通じてライフチャンスを掴んだり楽しんだりする代償として、少数者の尊厳を毀損することは許されるのか? という問いを私達は逃れることができない、ということだ。