「記憶違い」としてありうるもの・ありえないもの
自白や証言に客観的事実との齟齬がある場合、それが記憶違いに由来するのか、それとも嘘に由来するのか……。これは当ブログが主題としてきた歴史認識問題でも、また刑事裁判でも問題となることです。発言の「意図」は観察可能な対象ではないものの、「記憶違い」として説明することができなければ、「嘘」だと判断することが可能となります。
例えばガメ・オベール(現 gamayauber01 )の、「「死の行進」で弱りきったアメリカ兵になけなしのキンピラゴボウを分け与えたせいで戦犯として死刑を言い渡された日本兵」についての「裁判記録を読ん」だという主張はどうでしょうか?
一方で
BC級戦犯裁判の公判記録を読んだ経験があり、他方で別の文献で「ゴボウを食べさせて……」というエピソードを読んだことがある*1場合に、後者で記憶した内容が前者で記憶したものとして誤って想起されてしまう、というのはありうることです。
ただし、それは「裁判記録を読ん」だという経験が実際にあればこそ、の話。裁判記録を読んだことがないのなら、二つの記憶がごっちゃになるということは起こり得ない。つまり、最初から“カッコよくはなしを盛る”つもりだった、ということになります。ここでポイントになるのが、「裁判記録」について追及された挙句ガメが苦し紛れに出した“答え”です。
「岩川隆「神を信ぜず」立風書房(文庫はダメ)「末尾参考図書」に挙がっていると思うよ。
あれは送ってもらえるんです。行かなくてもダイジョブ」
私もこのブログで記事を書くために「裁判記録」を読むことはちょくちょくありますが、ふつう「どの裁判記録か?」と問われた際にこんな答え方はしないです。事件番号なり、公文書館での文書番号などを答えるものです。
可能な言い訳としては「手元に資料がないので、裁判記録の文書番号が載っていそうな文献をあげた」が考えられますが、わざわざ「立風書房(文庫はダメ)」とまで指定しておきながら、結果はとんでもないガセだったわけです*2。裁判記録を読んだ体験があるのなら、その資料に行き当たるまでの過程もそれなりに印象的なものだったはずです。裁判記録の「内容」だけでなく、「たどり着いた経緯」についてまで別のエピソードの記憶とごっちゃになる……というのは蓋然性の限りなく低いはなしでしょう。おまけに、『神を信ぜず』は連合国側の裁判資料を利用した研究・報道が困難だった時代に書かれており、混同の対象としても不自然なものとなっています。
これに加えて、アジア・太平洋戦争やBC級戦犯裁判に関するガメの知見の薄さを加味するならば、そもそも「裁判記録を読ん」だという体験自体が存在しなかった、と考えるのが合理的だという結論が出てきます。
*1:ただし、管見の限り、このエピソードを「バターン死の行進」時のものとしている事例は2008年に投稿された Yahoo! 知恵袋のクソ回答くらいしか見当たらない。うろ覚えだとしても程がある、と言うべきでしょう。
*2:なお『神を信ぜず』の文庫版は中公文庫からでています。中公文庫を何冊か読んだ経験があれば、単行本時についていた参考資料一覧等を中公文庫レーベルで文庫化するにあたってカットする、というのは極めて考えにくい、ということに同意いただけるでしょう。要するに、比較的入手可能な文庫版をチェックされたくなかったわけですね。