有罪の確信

先日の『「死刑裁判」の現場』という番組の放映予定を告知したエントリのコメント欄を受けて。番組に登場する土本武司・元検事は取調べの可視化に反対して次のように述べている。

 近時、取り調べの可視化の要請から、この取り調べ内容を全部一律に録音・録画すべきであるとの主張が聞かれる。そして、取調官が被疑者を厳しく追及するという思い込みのもとで、検察や警察は“厳しい取り調べ”の実態が表面化するのを恐れて、録音・録画記録制度の導入に反対しているとみられている。
 たしかに最近発生した鹿児島県志布志市の選挙買収事件や富山県氷見市の強姦等事件はいずれも冤罪(えんざい)で、自白獲得に向けた取り調べ方法に問題があった。取り調べ状況を可視化すれば、このような人権侵害的な取り調べは行われていなかったであろう。しかし、このような例外的な事例を引き合いに出して論議すべきではない。
 この問題はまず、欧米諸国と異なり、日本人被疑者の場合は、捜査官への自白が罪責感情を軽減させる機能を果たしていることを知るべきである。
 犯人が被疑者としての取り調べを受けることになったとき、とくに身柄の拘束を受けたとき、その直後は新しい環境に緊張するが、それに慣れ、取調官と親和する心理状態になれば、取調官との間に感情移入により“悔悟”の心情が芽生えて自白がなされるのである。したがってわが国における取り調べは、欧米でのそれのように、取調官と被疑者の対立闘争関係ではない。
 私の体験からしても、自白はむしろ取調官と被疑者が友好的関係になり、心のラポートがかかったとき、すなわち琴線に触れたとき生まれるものであり、対立抗争の関係にある間はそれがないため自白は生まれない。だから怒号とか理詰めの尋問は決して有効でない。
(http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071019/trl0710190331000-n1.htm)

「取調官と親和する心理状態」や「心のラポート〔ママ〕」に対する検察官の、あるいは警察官の強いこだわりは単なる(可視化阻止のための)口実ではなく、彼らの職業的な矜持とも関わる真面目なものであることは確かなようである。

浜田 (・・・)
 取り調べをする側からすると、取り調べというのは、たんに本人に自白をさせるということだけじゃなくて、謝罪をさせる、更正の一環と位置づけている。ある検察官は、“懺悔の場”だと言っている。だから、証拠が明白にある事件でも自白を求めるんです。自白させて反省させることに意味があると思っているんです。そんな懺悔の場にビデオテープを持ち込むなんて、とんでもない。一対一の人間関係のなかで本当のことが引き出せるんだと。録音テープなんて持ち込んだら、本当のことを言わなくなるじゃないかと。こういう発想なんですね。
 アメリカの社会学者が、日本の警察研究で言っているんですが、日本の取り調べの大きな特徴は謝罪追及ということにあると。情報収集ということよりも謝罪をどうやって引き出すかにある。しかし、取り調べは、本来、尋問ではなくインタビューなんです。単なる情報収集なんです。だから、情報提供したくなければ黙秘するのが、ごく自然なんです。ところが、謝罪ということになりますと、犯罪を犯したということが前提になり、謝罪させるためには自白がどうしても必要になる。
庭山 最近、現役の検察官何人かと会って、自白の問題について議論したことがあるんです。そのなかで、こういうことを言った人がいました。何日もかかって、ようやく自白をさせる。被疑者がポロポロ涙を流して、真実を語りながら悔悟、反省をする。このときこそ検察官の誇りと喜びを感じるんだと。こうなると麻薬みたいなもので、やめられないと。こんな雰囲気が検察庁全体にあるんじゃないかなぁ。
浜田寿美男、『〔新版〕狭山事件 虚偽自白』』、339-340ページ。「庭山」は対談相手の庭山英雄弁護士)

同じようなことを検事出身の作家も述べている。

 以上に加えて、捜査官がひたすら真実の吐露を希求する理由がもう一つある。
 犯罪者を改善更生させ、社会復帰を遂げさせたいということである。
(……)
 警察は、暴力団からの離脱を願う者と組の間に入って話をつけてやったりもする。警察官も検察官もその多くが、仕事をしていて一番嬉しかったことはという問いには迷わず、
「犯罪者が心から罪を悔い、更生してくれたこと」
と答えるはずである。
 なにが嬉しいといって、自分が取調べた者が前非を悔い、更生を誓う手紙をくれたり、いまは真面目に暮らしていると挨拶に来てくれることほど嬉しいことはない。捜査官にとってはそれがなによりもの宝であり、勲章である。
(佐々木知子、『日本の司法文化』、文春新書、107-109ページ)

「真実の吐露を希求」とは自白させようとする、という意味である。
ここでまず指摘しておきたいのは、昨日別館で取り上げた撫順(および太原)戦犯管理所の元収容者と元職員が「認罪教育」について持っている認識が、日本の警察官や検察官が理想とする被疑者との関係についてのそれと、極めて似通っているということである。単に戦犯を起訴し処罰するためであれば、中国にとって自白をとることはさして重要ではなかった。被害の実態についてはかなり詳細な調査を行っていたからである。「認罪教育」においては自白することそれ自体に意味があるとされているのである。そしてこの点もまた、日本の刑事司法における取調べ(についての取調官の認識)に類似している。『自白の研究』で浜田氏は土本武司・元検事の著書『犯罪捜査』(弘文堂)から次のような一節を引用している。

 捜査活動は、犯人にとっては、捜査官により逮捕・勾留等の強制処分を受け、取調を受けること自体が、厳しい体験として、一定の感銘力を与え、将来への訓戒的役割を果たしている。(とくに初犯者にとっては、手錠をかけられ、拘置所・留置所に収容されることがいかに肉体的・精神的苦痛の大きいものであるかを想起されよ)。
(『自白の研究』、226-227ページより孫引き。強調は原文では傍点。)

土本氏はこれに続けて、捜査活動には「犯罪によって惹起された社会人心の不安を緩和し、正義が行なわれたことの満足感を与え」る機能もあると述べていて、これはこれで「推定無罪」という理念との関係で大いに問題があるのだが、ここではこれ以上追求しない。
以上のように、撫順戦犯管理所で行なわれた取調べの背後にある思想は日本の刑事司法実務のそれと多くの共通点を持つ。右派の中には軽々しく中帰連のメンバーを「洗脳されてる」などと誹謗する者が少なくないが、ならば同じことを日本の(更生した)犯罪者についても言うのでなければ筋が通らない。


さて、上述したような警察官、検察官のスタンスが問題なのは、それが被疑者=真犯人であるときにこそ機能するものだということ、にもかかわらず/だからこそ、取調官は被疑者が真犯人であるという強い確信を持って取調べるよう推奨されているからである。客観的な証拠が十分にあって被疑者=真犯人であることが動かし難い場合はともかく、そうでない場合には無実の兆候を過小評価し結果として冤罪をつくり出してしまうおそれがあるわけだ。さらに、取調べ過程それ自体が「将来への訓戒的役割」をもつという発想は、被疑者への人権侵害的な処遇を正当化しかねない点も問題だろう。


はなしを『「死刑裁判」の現場』にうつそう。自分が取調べて死刑判決を受けた死刑囚から手紙が来る、そこには深い悔恨の念が表現されている……というのは日本の検察官にとってまさに理想的な展開であって、土本氏が取調官と被疑者のラポールに強くこだわる気持ちはよく理解できる。しかしながら、番組が明らかにした情報の中には上述したような取調べのスタンスへの反省を促すはずの要素もあった。
問題の事件の資料を収集した土本氏は、一審の判決理由が死刑事件であるにもかかわらず2枚しかないことに驚き、裁判所の姿勢への疑念を表明する。一審判決を書いた元裁判官に取材すると、なんと公判が2回しかなかった(当時のメモによる)という驚くべき事実が明かされ、元裁判官は今度は一審の国選弁護人を批判する。上告の際に死刑囚は(それまで認めていた)明確な殺意を否認する上申書を出すが上告棄却で死刑が確定、執行された。土本氏は最高裁の段階になって初めて殺意を否認したことを悔やむ(明確な殺意の存在が死刑判決の決め手の一つとなっていたため)が、ここで問題なのは、捜査段階で殺意を認める自白をとったのはその土本氏自身ではなかったのか? という点である。上申書での殺意の否認が真実なのかどうか、いまとなっては知る術もない。しかし殺意を認める自白をした時点で死刑へのレールが敷かれはじめたことはまず間違いのないことだ。土本氏がこの点をどう考えているのか、残念ながら番組はそこまで踏み込んでいなかった。