ネトウヨが21世紀に伝承する七平メソッド

http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/51899645.html

 さる5月26日の新宿デモ(わが外撲協による「外国人犯罪撲滅国民大行進」)において沿道からしかめっ面で我々の行進に見入る朝鮮人か中国人と思しき者らが何名かいた。他のデモ参加者も同様に、「三国人」らしき者の姿を確認している。ただでさえ外国人が特に多い地域だ。嫌でも目につく。


 女史からの質問で、「それがどうして外国人(朝鮮人や中国人)だと分かるのか?」というのがあった。


 ズバリその辺りは「直感と感性である」旨を述べた。そのくらいの直感と感性が働かないようでは、とても排外デモなどの愛国行動・社会運動には至れない。もしかすると日本人かも知れないが、往々にして敵対者(朝鮮人や中国人などの外国人)であることが少なくない。

タクシー乗務員(非実在タクシー乗務員の可能性大)の口を借りて同じことを半世紀近く前に言っていたやつがいます。

 金嬉老事件のあった直後、山本書店店主と二人でタクシーに乗った。ところがその運転手が(やや粗暴でいわゆる雲助タイプだったが、根は人が良いように見えた)、外人づれのダンナらしいから、こりゃと一瞬思いましたがね、だが朝鮮人じゃないから――」という。「朝鮮人なら乗せないのか」と山本氏。「そりゃあ、いきなりうしろからライフルをぶっぱなされちゃ、たまらへんもんね。――おことわりですよ」と運転手。そのとき私が口をはさんだ。「私には朝鮮人と日本人の区別はつかないが、運転手さんには区別がつくのですか」。運転手は言った。「だんなは日本語がうまいねえ。おれよりうまいぐらいだな。わかりますよ。なんとも言えぬにおいですよ」。私はさらにたずねた「においというけど、そりゃ確かに、乗せてドアをしめれば何らかのにおいを感ずるかもしれないけれど、道路に立って、手をあげているだけで何かのにおいがわかるのですか」「そう理屈をいわれるとこまるなあ。においって言うかな、何というかな、ま、感じですかねぇ」。ということだった。いずこも同じである。かすかなにおい、といわねば表現できないようなある種の差、一種の動物的嗅覚とでも言うべきものが嗅ぎわける差、迫害にはすべて、この要素が、程度の差はあっても必ずつきまとうことは否定できない。(後略)
(『日本人とユダヤ人』、角川文庫、186-188ページ)

強調部分は正確にはこう言い換えられる必要があるでしょう。「かすかなにおい、といわねば表現できないようなある種の差、一種の動物的嗅覚とでも言うべきものが嗅ぎわける差」なるものがありわれわれはそれを感じとることができるというプロパガンダ、迫害にはすべて、こうしたプロパガンダが、程度の差はあっても必ずつきまとうことは否定できない、と。