秋葉原殺傷事件、一審判決


判決をうけて、事件についての「疑問」が残るという趣旨の報道が目につきます。

 白昼の秋葉原を恐怖と混乱に陥れた加藤智大(ともひろ)被告(28)に極刑が言い渡された。法廷で謝罪の言葉を重ねる一方、心を閉ざすかのように親友や被害者の面会を拒絶してきた被告は、身動きしないまま判決を受け止めた。「何が真実だったのか」。事件を語り継いできた被害者の元タクシー運転手、湯浅洋さん(57)は判決後、やるせない思いを募らせた。
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 10年1月から30回に及んだ公判の多くを傍聴した。無表情で淡々と話す被告の姿が印象に残った。「君の人となりが見えない」。今月、被告に手紙を出し、東京拘置所に2度足を運んだが、被告に拒否されて面会はかなわなかった。


 被告に刺された右脇腹の約15センチの傷が今も時折うずく。しびれは一生消えないと医者に言われた。「分からないことがたくさんある。第2、第3の加藤被告を生まないために、いろんな人に考えてもらいたい。今後も経験を語り続け、加藤被告本人の話も聞きたい」。傷とともに歩み、事件を考え続けるつもりだ。

今朝の朝日新聞(大阪本社)朝刊にも「死刑「真実語らず」 疑問なお、遺族不満」という見出しで被害者(毎日が取材している湯浅さん)や被害者遺族の声を伝えています。
被害者や遺族が「なぜ?」という問いのこたえを見つけたいと思う心情については察するに余りありますが、「誰が、何を」についてはともかく「なぜ?」については、その解明を刑事裁判に期待してもなかなか難しいのではないでしょうか。当初から死刑が予想されていた事件で、被告人が死刑を回避しようと思えばなにからなにまで話すはずはありませんし、反対に「どうせ死刑だ」と諦めてしまった場合にも「死刑になるなら洗いざらい話すこともあるまい」と考えて不思議ではありません。もう一方の当事者である検察の方も、動機や事件の背景についてはやはり量刑を意識しての追究になるわけで、そのことは「なぜ?」という問いにバイアスをかけることになります。なにより事件からまだ3年も経っていないわけで、事件の重大さを考えればこれは被告人が自分の行動を振り返るに十分な時間であったとは言いがたいでしょう。毎日の記事は被告人の父親の「何であんなことしたのか本人にも分かってないのでは……」ということばを伝えていますが、これはそう実態から遠くない見かたではないでしょうか。
一刻も早く答えが欲しいという被害者や遺族の心情も理解できますが、やはりその答えを得るには被告人が量刑を気にかける必要がなくなった環境で、時間をかけてゆくしかないのではないか。そして死刑とはそうした作業を不可能にしてしまう*1制度なのだ、と思います。

*1:執行までにかなりの時間があるケースも少なくないですが、死刑囚との接見を大幅に自由化しない限りその時間を活かすことも難しいでしょう。