「建前」が機能することは大事

週刊朝日』の一件、およびそれに先行する新潮、文春の事例が示しているのは、この社会にまだ根強く部落差別が存続している事実と、しかし相対的に言えば(あくまで相対的に、だが)部落差別に関しては「してはならないこと」という建前が機能している事実であった、ということができるのではないか。例えば性的マイノリティーへの差別も露な発言を行なった男は都知事の座を追われることもなく、いまや「第三極」の代表に収まっている。次の選挙で第一党に返り咲きそうな政党は、非嫡出子への差別を積極的に温存することを主張している。朝鮮学校への無償化適用除外、公園などからのホームレスの排除、入管での外国人に対する人権侵害など、行政が率先して差別に加担しているケースもある。これに対して、近年において公人が部落差別に加担したとされる事例――地方議員の言動まで逐一チェックすればまた別だろうが、中央レベルに限定するなら――で記憶に残っているものとしては、野中広務麻生太郎を告発したケースくらいではないだろうか。結局、発言の有無を判断する決め手がなかったことで立ち消えになった感があるが、仮に伝えられるような発言があったのだとしても、石原のように「言ったけど、それがなにか?」と開き直ることはできなかったわけだ。他には在特会の元副会長が水平社博物館に街宣をかけて差別用語を連呼し民事訴訟で敗訴したケースがあるが、これも在特会メンバーの他の行動に比べて注目度は低かったように思う。その一因もまた、「してはならないこと」という建前が相対的には機能しているということに求めることができるだろう。蕨市での在特会の街宣は非難したけど水平社博物館へのそれをスルーした保守派・右派ってたくさんいると思うんだけど、普段から人権問題に冷淡だと「ダブスタ」って言われないので楽でいいねっ!
それはさておき、scopdog さんも指摘しているように、精神障害や精神病、あるいは人格障害などへの差別を含意する表現が無批判にスルーされていることはたびたびあるように思われる。私が『新潮45』の特集をとりあげた際に野田正彰への批判を最優先*1させたのもそのためだ。やはり、「してはならない差別」という建前が機能することは大切なのだ。

*1:反対に、人権擁護法案騒動の時のように、部落解放同盟への無根拠なネガキャンが行なわれた時には積極的にそれをとりあげた。