恣意的に措定される「被害者の意思」


法華狼さんのこのエントリへのブクマから派生した id:geist1979 氏とのやりとりについて。メタブクマを積み重ね続けるのもいい加減止めたいので。
直接のきっかけとなっているのは次のような法華狼さんの論評。

もちろん、小泉元首相も拉致被害者を帰国させるまでは複数の外交カードを使いつつ、帰国時に日本へ留め置くという毅然とした態度で、後の外交カードを封じてしまった。

以下、時系列順に。ブクマタワーを上に上にとたどっていけばいいだけなのでURLは省略(引用文中のIDコールも省略)。

geist1979
経済制裁への評価はともかく、「帰国時に日本へ留め置くという毅然とした態度で、後の外交カードを封じてしまった」はないだろう。拉致被害者北朝鮮に戻すべきだったと?被害者本人や家族の意思は無視? 2011/12/23

Apeman
安倍晋三は被害者の「意思」を尊重して「返さない」と主張したんじゃありませんよ。意思を確認する前から「返さない」という結論ありき、だったんです。 2011/12/23

geist1979
安倍氏の主張と言うより、家族会の意思だったと思いますが。/本人が北朝鮮に戻りたくなかったら、戻らず日本に留まるのは当然の権利で、外交のために一旦戻れなんて言える訳がないでしょう。 2011/12/24

Apeman
「家族会の意思だった」 つまり被害者本人の「意思」でなかったという点に異存はないのですね? 福田官房長官(当時)のプランは決して被害者の「意思」に反するものではなかったことになりますね? 2011/12/24

geist1979
家族の強い説得により、本人が最終的に日本に留まる意思決定をした、ということのようです。http://goo.gl/LY3Sp http://goo.gl/E3OXn 子供が北朝鮮に残された状況で本人の意思を公に表明するのは難しかったと思います。 2011/12/24

Apeman
「強い説得」ということはつまり、当初は本人も帰るつもりだったということですよね? 北朝鮮にも家族がいるんだから、「約束通り帰って、次の機会を待とう」と考えてもぜんぜんおかしくないですよね? 2011/12/24

geist1979
当初の意思は、北朝鮮に戻るつもりだったのかも知れません。滞在期間中に本人の意志が変わったということのようです。最終的に本人の意志が変わったのなら、北朝鮮に戻すべきではないでしょう。 2011/12/25

Apeman
「変わった」んじゃなくて「変えさせた」んでしょ? そこはしっかり押さえないとインチキになりますよ。 2011/12/25

geist1979
以前に張ったリンクで、政府(安倍氏)が強制的に意思を変えさせたのではないことは示してあります。説得した家族、意思を変えた本人、その意思を追認した政府のうち、誰を問題視してるんですか? 2011/12/25

Apeman
本人たちが「返りたくない」と言い出す前に「返さない」というスキームが動き出していたことですよ、問題にしているのは。 2011/12/25

geist1979
その「返さない」スキームを主導していたのは被害者家族ですよね。家族の行動が問題だったと認識してるんですか? 2011/12/25

現時点ではここまで。法華狼さんのところのコメント欄では、法華狼さんと geist1979 氏との間のやりとりもあるので、そちらもご参照いただきたい。
以下、「被害者」ないし「被害者本人」とは2002年に「一時帰国」しそのまま日本に留まった5人の拉致被害者を、「日本側家族」とは5人の元々の家族を、「北朝鮮側家族」は拉致後に北朝鮮でできた家族をそれぞれ指す。


私が問題にしているのは何かといえば、被害者の「意思」が極めて恣意的に措定されることによって、日本政府の「拉致問題」政策の大失敗が糊塗されてしまっていること、である。5人を帰国させないという選択が結果的に失敗であったことは、それ以降拉致問題が完全に手詰まり状態になってしまっていることを考えれば明白であろう。そこで小泉内閣、特に当時の安倍官房副長官を弁護するために引き合いに出されるのが「被害者の意思」であり、また安倍自身の言葉を借りるならば「ここでかれらを北朝鮮に戻してしまえば、将来ふたたび帰国できるという保証はなかった」という事情である。前者についてはここでの本題であるから後まわしにして後者について簡単に触れておく。5人をそのままとどめおけば北朝鮮との交渉が頓挫してしまうことは単なる可能性ではなく、ほぼ確実に予想できたことである(そして現にそうなった)。これに対して「将来ふたたび帰国できるという保証はなかった」は形式的には真であるとはいえ、では一度の帰国を許した北朝鮮が二度目以降の帰国を絶対に許さないという蓋然性がどれほど高かったというのだろうか? またそもそも、「将来ふたたび帰国できる」ようにするために努力するのが政府の義務ではなかったのか? 安倍は「つねに相手のペースをくずさないように協力して相撲をとれば、それなりの見返りがある。それを成果とするのが戦後の外交であった」「相手の作った土俵では戦えば勝てない」として自分の判断を正当化しているが、なんのことはない、「毅然とした態度」がもたらす「それなりの見返り(=5人の被害者の奪還)」の代償として問題解決の進展を不可能にしてしまっただけである。「相手の作った土俵では戦えば勝てない」からといって土俵をぶっ壊してしまったのではそもそも勝負になるまい。


さて、被害者の「意思」である。一連のやりとりの中で geist1979 氏は「日本に留まる」という「意思」が一時帰国後に「強い説得」により形成されたものであること、「当初の意思は、北朝鮮に戻るつもりだったのかも知れません」ということを認めた。事前の取り決め通り5人を北朝鮮に戻すという当初の日本政府の方針は別段被害者の意思に反するものではなかったわけである。安倍も geist1979 氏も“子どもが人質に取られていた”ことを重視しているようだが、これは極めて奇怪なはなしである。北朝鮮に残してきた家族が被害者にとって「人質」となりうるような存在なのだとすれば、我々は被害者と北朝鮮側家族との結びつきを尊重しなければならないはずだ。「最終的に本人の意志が変わったのなら、北朝鮮に戻すべきではない」ですむ話ではなく、わざわざ被害者本人の意思を変えさせた結果その後の交渉を頓挫させたことに対する責任が問われるはずだ。
この点について geist1979 氏は、「被害者の意思を変えさせたのは家族であって日本政府(安倍晋三)ではないのだからしかたない」とでも考えているのだろう*1。私はといえば、安倍は家族たちによる被害者の「説得」工作を受動的に見守った傍観者などではなく、「5人を返さない」という政治的な意志で行動していたと考えている(例えば船橋洋一などが指摘しているように)。安倍のそうした姿勢は、彼自身によるこの問題の回顧からもにじみ出ているからだ。「わたしを拉致問題の解決にかりたてたのは、なによりも日本の主権が侵害され、日本国民の人生が奪われたという事実の重大さであった」と彼は言う。「人生」よりも「主権の侵害」が先に来るのであり、その「人生」というのもわざわざ「日本国民の」という形容つきである。「工作員がわが国に侵入し、わが国の国民をさらい、かれらの対南工作に使ったのである。わが国の安全保障にかかわる重大問題だ」と彼は言う。拉致は「侵入」と「安全保障」がからんでこそ始めて問題にするに値する、とでも言わんばかりだ。「〔5人を返さないことを日本政府が通告した〕その日、ある新聞記者に「安倍さん、はじめて日本が外交の主導権を握りましたね」といわれたのを鮮明に覚えている。たしかにそのとおりだった」と彼は自画自賛している。その後の経緯をみれば「外交の主導権を握」ったなどというのは悪い冗談としか思えないが、これをいまだに自身のサイトの「発言語録」コーナーに掲げ続けているのは、被害者と北朝鮮側家族のつながりを守ることよりも、「主導権を握ったという体裁」を優先しているからではないのか?
しかし被害者を翻意させたのがあくまで日本側家族であり、日本政府は一切関与していなかったとしても、日本政府には5人が日本に留まり続けた場合にどのような事態になるかについての正確な見通しを被害者や日本側家族に伝える義務があり、またその見通しに責任を持たねばならないはずだ。「悪いのは家族の来日を許さない北朝鮮だ」というのは、拉致問題を「スカっとする」ための材料としてしか考えていない人間には通用するかもしれないが、政治的責任を問題にする場合には「なぜそういう事態をきちんと予測し手を打たなかったのか?」が問われねばならないはずである。

*1:地村さん夫妻は当時の手記で、「日本に留まることを最終的に決めたのは、結局日本国政府が「一時帰国者を帰さない。北朝鮮と毅然(きぜん)とした態度で臨む」と言明した時点であった。それは家族、友人の思いより日本国政府の決断、対応が今後の問題解決の決め手であると確信していたからだった」としているが。http://www.asahi.com/special/abductees/TKY200310140184.html