「御用学者Wiki」的なものを生む背景について

上記のまとめが目にとまるまで「御用学者Wiki」なるものを見たことはなかったし、その後もろくに読んでいないので、そこにおける「御用」認定の妥当性についてはここでは問題にしない。「御用」認定の基準、および個々のケースにおける「御用」認定の根拠に十分な合理性があるか否かが問われるであろう、という一般論を述べておくにとどめる。
しかし看過しがたいのは、この「「御用学者Wiki」についてのやりとり」の当事者の1人でもある片瀬久美子氏の次のようなツイートである。

・ちょっとでも触れると紛糾してしまう3大テーマ:原発、クジラ問題、南京大虐殺
(https://twitter.com/#!/kumikokatase/status/119645296681693184)

微修正 ・ちょっとでも触れると紛糾してしまう3大テーマ [日本版]:原発、クジラ問題、南京大虐殺
(https://twitter.com/#!/kumikokatase/status/119647218243350528)

ここで挙げられている3つの「テーマ」のすべてにおいて、日本政府が論争の一方の側にコミットしている――コミットの度合いや仕方は問題により、また時期により違っているにしても――ことは、これらの問題について最低限の知識を持っている人間にとってはいまさら説明する必要もないことであろう。この3つの「テーマ」の共通点はそれだけではない。「ちょっとでも触れると紛糾してしまう」に類する揶揄まじりの評価がこれらの問題にコミットしない理由として頻繁に利用されてきたこと。同時に、日本社会における研究者集団がその社会的責任をきちんと果たしていれば少なくとも現在のようなかたちでの「紛糾」などは生じなかったはずであること、がそれである。想定可能であったはずの事故の想定を封印し、科学的な意義の希薄な調査捕鯨を放置し、否定しようがない大虐殺の存在を否定する大学人が存在することを許してきた責任は誰よりも日本の研究者集団が負うべきものである。公権力と研究者との関係が問われている文脈において、こうした責任を無視するかのような発言は看過することができない。
もちろん研究者集団がどれだけ誠実にその責任を果たしたとしても、「紛糾」をゼロにすることはできないだろう。しかしながら明らかにレイシズムにもとづく南京事件否定論をアカデミズムがきっぱりと否定していれば「南京大虐殺があったか、なかったか」といったレベルの「紛糾」をなくすことはできたはずであるし、ほとんど意味のない調査捕鯨を止めていれば「クジラ問題」を巡る議論もずいぶんと様相を変えていたはずであるし、原発事故はあり得るという前提であらかじめ被曝リスクについて議論されていれば放射線の健康への影響についての過剰な(と、“科学的”には判断される)反応ももっと抑制されていたはずであろう。いずれの場合にも、「紛糾」の責任の少なくとも一端は研究者共同体が負わねばならないはずだ。それを棚上げして「ちょっとでも触れると紛糾してしまう3大テーマ 」などとネタ扱いするような態度をアカデミシャンがとるのであれば、「御用学者Wiki」のようなものをつくる人が現れるのも当然だと言わねばなるまい。