例証乙
何万、何十万という人間の死にこの社会が負っている責任を意にも介さないような「国民の正義感情」が死刑制度を支える論拠足りうるのか? を問題にしたエントリに対して、ブクマなりコメント欄なりで文句つけに来た人間の中に、ただの一人も、たとえただのエクスキューズとしてであれ、「いや確かに小泉の責任が追及されてないことは問題ですが」とか「名古屋市民ですがリコールが成立したら河村たかしには入れません」とか「ブッシュは平和に対する罪で訴追されるべきですが、それでも死刑にすべきでないと思いますか?」とか言ってみせた人間がいなかった、というのは極めて興味深いね。
追記
オレ、ちゃんとこう書いておいたんだけどな。
こういう境地に達するうえで、南京事件否定論者の言動をフォローして来たことは大いに関係しています。「捕虜を殺したのは正当である」と主張するために様々な詭弁を弄する人々を見ていると、そうした主張に対して国際法やら当時の軍事的情勢やらを引き合いに出して「いや、あの捕虜を殺すのは不当だった」と反論するのは実は間違っているのではないか、とすら思えてきますから。
これを無視して「感情論」だの「思考停止」だのと言ってるのはみんな歴史修正主義を支持ないし容認している、ってことだよな。自分は「感情」ではなく「理性」で思考していると自負しているなら、何故に死刑を存置しているこの社会が南京事件否定論を放置しイラク戦争への加担の責任を不問に付しているのか、きっちりスジの通った説明をしてみろ、ってんだ。