語るに落ちちゃってます
ここのコメント欄。
gryphon 2009/12/20 07:48
映画「靖国」批判も、批判者は「私たちはあの映画の社会的責任を、社会的に問うているのだ」と正当化できるのではないかと。その背後には右翼の暴力(例=街宣車の騒音)の恐怖があるのだろうという反論もありえるだろうし、実際に映画館の上映中止はそうだと思いますが、日本のイスラム批評や風刺の少なさ(デンマークの新聞に連帯するメディアは殆ど無かった)も、「悪魔の詩」翻訳者が惨殺された恐怖が影をおとしているとも解釈できるでしょうし
NaokiTakahashi 2009/12/21 17:13
(略)
>私がある作品を批判して、作者が作品を絶版にしたり、断筆したりするのは「具体的人権侵害」になるのですか。
出版社に押しかけ圧力を掛けて出版停止に追い込んだら、具体的人権侵害になりうるだろうよ。加害者も被害者も被害も加害行為も明確でありうるからな。もちろん場合によるだろうが、君はその辺ほとんど留保なくしゃべってるように見えるから、当然危惧されてしかるべきだと思うんだが。
ていうか、それが問題ないのなら映画「靖国」に右翼が圧力掛けた例だって批判できなくなるんだが?
id:gryphon はここでも『靖国』に言及しているけど、いずれの場合も与党(当時)の国会議員が助成金を盾に取って国会議員向けの「試写」を一般公開前に要求したことはスルーしてますな。だいたい、『靖国』という映画に対して右派が「批判」すること自体を非難した奴なんていたか? 反批判の主眼は稲田朋美ら与党議員の圧力と、「チャンネル桜」に代表される右派の『靖国』批判の内容に向けられていたはずだ。
(さらに言えば、ここで『悪魔の詩』翻訳者殺害事件に言及するのもずいぶんと恣意的なはなし。なんで嶋中事件じゃないの? それが古すぎると言うなら1998年の映画『南京1937』に対するスクリーン切り裂き事件のほうが1990年の翻訳者殺害事件よりよほど関連があると思うけど。)
そもそも、ある表現行為に対して抗議がなされ、結果としてその表現行為の撤回(例えば上映中止だとか商品の回収だとか)がなされたとしても、そこには(1)その抗議が威力業務妨害やら脅迫に該当するような水準に達しておりその暴力(の予期)に負けた場合、(2)威力業務妨害や脅迫の水準に達してはいない抗議だったのに、表現者がヘタレだったので自主規制してしまった場合、(3)威力業務妨害や脅迫の水準に達してはいない抗議だったが、抗議の趣旨はもっともであると表現者の側が納得して撤回した場合……といった分類が可能なわけである。これ以外の類型や境界線上の事例はありうるにしても。なのに、なぜ(1)のような類型だけを想定するかな。「表現行為に対する抗議はすべて言いがかりである」という前提でもあるのか?
上記コメント欄での hit-and-run さんの追求は決定的なものと言えるだろう。「表現の自由に紐をつけるな」というなら、「表現行為に対する批判」というかたちでの表現についてもやはり「表現の自由に紐をつけるな」と言わねばならないはずだ。とすれば、「表現行為に対する批判」が威力業務妨害や脅迫に該当しない限り、その結果(としての上映中止やら絶版やら商品回収やら)について責任を問われる謂れはない、ということになるはず。