独善的にもほどがある
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20120515/p1
ブコメに、靖国に連れて行った日本の右派をなにがなんでも擁護したくて仕方ない人が何人もいますが、一体来日中のウイグル人に「昇殿参拝」させるー「昇殿参拝」という表現は私が勝手に言っているのではなく、日本の右派自身が用いているのですーことにどういうメリットがあるというのか、教えてもらいたいものです。
まあ、多くは実のところこれが失態であることには気づいているが故の苦しい言い逃れなのでしょうから個別にとりあげるまでもありませんが、看過できないものもあります。
tonapa
ムスリムとはいえウイグル族ってそこまで原理主義的だったっけ?右派憎し靖国憎しの果てに、勝手な妄想でウイグル人の立場を利用しているようにしか見えないエントリー。 2012/05/15
nekora
狂信的原理主義者じゃなければ、開催国の有名寺社に行ったらそりゃ拝むくらいするんじゃ…。まして墓地。 2012/05/16
もうひとつ、同じような趣旨のものがありましたが、撤回されたようなのでそれには触れません。
これらのブコメはいずれも、ムスリムにとって当たり前のことを「原理主義」扱いしています。イスラーム研究者は「(イスラム)原理主義」という用語を用いないのが普通ですが、その理由のひとつは次のようなものです。
〔聖書無謬説など〕このようなキリスト教ファンダメンタリズムの思想的特徴は、今日のイスラーム世界で「原理主義者」と呼ばれている者たちのそれと完全には一致しない。現在、世界に一三億ほどいるといわれるムスリム(イスラームの信者)の大半は、その聖典・クルアーンは唯一絶対神、世界の創造主であるアッラー(神)の言葉の集成であると信じており、したがって無謬であるとみなしている。クルアーン無謬説は、ほとんどのムスリムが堅持している立場なので、この基準をあてはめれば、ほとんどのムスリムが「原理主義者」となってしまう。
(大塚和夫、『イスラーム主義とは何か』、岩波新書、7-8ページ)
今回問題になっているのは「酒を飲む」といった類いの逸脱ではありません。「ムスリムであること」の根幹に関わる事柄です。「原理主義者じゃないなら、神社にも参拝するだろう」という発想をする人は、日本に住むイスラム教徒が現に神社への参拝を拒否するという場面に遭遇したとき、容易に「こいつらは原理主義者だ」「イスラム教徒は原理主義者だ」という発想に飛びつくでしょう。自らの宗教感覚を勝手にイスラム教徒に投影しておいて、それが現実によって裏切られると排除の論理を発動するわけです。
しかし、靖国を「墓地」だとする無知にはあきれますね。神社が「墓地」なわけないじゃないですか。コメント欄にも靖国を「アーリントン墓地」みたいなものだといった人がいましたが。彼らにはきっと神罰が下るでしょう。
もうひとつ。これはトリヴィア的な知識を悪用した右翼擁護の例です。
gryphon
興味ある話題。で私が知る限り、民俗的背景等で他の聖的存在に寛容なムスリム「も」厳格派「も」います。前者でないと確認前の批判は多少性急では。また異教を敬いつつ不帰依の作法もあり、不参加だけが正統でも無い 2012/05/16
イスラームでも「聖者崇拝」「聖所崇拝」の類いであれば、地域や時代により盛んであったことはあります。しかし靖国は「聖所」ではなく神殿です。百歩譲って仮にラビア・カーディルさんらが気にしていないとしても、「昇殿参拝」は「世界ウイグル会議」へのネガティヴ・キャンペーンに格好の材料を与えるもの、という点への反論には全然なってません。
さらに「異教を敬いつつ不帰依の作法」などというのは、まさに語るに落ちたというもの。日本の右翼がウイグル人の苦境につけ込んだということを認めたようなものです。
ぐちゃぐちゃ言わずに「靖国抜きで支援すればいいよね」と言えばすむことなのに、どうしてもこのひとことは言いたくない人々がいる、ということですね。