肩すかしにもほどがある


「異教の神殿を喜んで参拝するムスリムについてのソースつき情報よろしく!」って依頼しておいたら返事が来た! ってことでわくわくしながら読んだんですが……。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120517/p4
そもそもここで(というのはムスリム靖国に連れて行った、という件に関して)問題になっているのはラビア・カーディルさん個人の内面の問題だけではなく、いやむしろラビア・カーディルさん個人の内面の問題ではなくて、「靖国参拝」に対するイスラーム世界の最大公約数的な反応をどう推し量るか、です。で、どうだったかというと、彼としては「参考リンク集」以下の部分で答えたつもりらしいですが、全然答えになってないですよね。特殊な事例過ぎて、とても一般化できません。こんな例しか出せないのにこんなこと言ってたわけね。

興味ある話題。で私が知る限り、民俗的背景等で他の聖的存在に寛容なムスリム「も」厳格派「も」います。前者でないと確認前の批判は多少性急では。

いやいや、仮に論点をラビア・カーディルさん個人の内面の問題だけに限定したとしても、むしろ「異教の神を拝むことにも抵抗のない人だと確認できない限り、まずは批判しておくべき」でしょうが。しかも主たる論点は別のところにあるんだし。


それ以外のところについても触れておきましょう。

もとより仮定の話ですが、仮定に仮定で返すなら、「イスラム教徒なら、神社には死んでも、絶対に参拝しないだろう」という発想をする人は、イスラム教徒が現に神社に参拝するという場面に遭遇したとき、容易に「こいつらはカーフィル(不信仰の徒)だ」「日本人に利益で釣られるか弱みを握られて仕方なく屈している(≒現世の利益や利害を、アッラーより優先させるカーフィルである)」という発想に飛びつきかねません。

バカじゃないの? なんでムスリムでもない人間がムスリムに対して「カーフィルだ」などと非難する動機があるの? 現に、ただの1人もラビア・カーディルさんらを「カーフィルだ」と非難している人間はいないよね?
さて、次の一節はこの人の差別主義者としての顔を際立たせてくれるものです。みなさん、じっくり味わってください。

さて、そこなんですが、自分は何度かこのブログで、特に宗教面における「見なしの自由」というのを擁護していました。(後略)

見なしの「自由」ですってよ! コピペミスじゃありません。「自由」って書いてあるんです。みなさん、なんでこんな場面で(ムスリムにとっての)「自由」なんてものが問題になりうるのか、理解できます? 要するにこの人は、ラビア・カーディルさんの靖国「参拝」問題を、こう理解しているわけです。イスラム教徒が神道を自己流に解釈して対応したとしても大目に見てやろうぜ、と。信じられますか?

「異教を敬いながら帰依はしない」というのは、これからさらに、皆が持たねばならないスキルだと思うんですが・・・てかそれが無いと自分もモスクや教会にいけないし寺にもいけないし。

モスクや教会や寺にただ行くことと、それらを「参拝」「参詣」することとは全く別じゃん。いま問題にしているのは、日本の右派が「昇殿参拝した」と宣伝していることなのだから、その文脈で「異教を敬い」と言えば当然「昇殿参拝」に類することを意味するでしょうが。

それは、例えれば「ネガティブ・キャンペーンの材料を与えるから、韓国のキリスト者安重根列福すべきだ、なんて言うべきじゃなかった」みたいなものでは。

どんだけ内向き思考なんだよw 靖国神社安重根と同じレベルで国際社会に普遍的な理念を訴えるための依り代足りうると思ってんの?