「キリッ」について


http://d.hatena.ne.jp/quagma/20110105/p1
こちら↑を拝見して。

私は、このエントリーおよびコメント欄において言われている「表現の自由キリッ」について、その意味するところがいまいち把握しきれない感があった。しかし、今回のやり取りを通して、私は「ああ、これか」と思ったのである。


表現の自由キリッ」っていうのは、本来「表現の自由」の出番ではない場面で「表現の自由」によって自己の行為を正当化できると考えるズレた振舞いを揶揄した言葉なのではないか。

別段このような理解に異を唱えたいわけでもなく、また言うまでもなく「表現の自由キリッ」の定義に関して私が特権的な立場にあるわけでもないけれども、まあこれもなにかの縁と思ってこの機会に私が「キリッ」にどのような意味あいをこめているのか説明しておこうかな、と。
この表現の前提になっているのは次のような認識です。

法規制は特定の個人の人権が具体的に侵害される場合に限るべきだ、というのは正論ではある。表現による暴力のうち特定の個人への具体的な侵害になっているものとそうでないものとの間に線をひくことには一定の合理性がある。しかしこの合理性は「ここに線をひけば表現による暴力に効果的に対処できる」という性格のものではなく「これより向こう側に線をひけば弊害がある」という事情によるものだから、「法規制に反対するとして、それからどうする?」が問われることになる。この問いを拒絶する法規制反対論には私は与することができない。
(http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090602/p1)

「○○キリッ」というのは要するに「○○、と口にすればそれで決定的なこと、全ての議論に決着をつけるようなことを言ったことになると思っている(ないしそう装う)態度」を揶揄したものです。だから「○○キリッ」という批判は「結果としてどのような結論に達したか」には基本的に関係がありません。「表現の自由キリッ」があるのと同じように「青少年の健全育成キリッ」だとか「公共の福祉キリッ」があるだろうし、後者に対しては「表現の自由キリッ」とまったく同じ精神でもって批判が可能です。
今回、quagmaさんの意に反するかたちで利用されてしまった「合衆国の判例においては、「ヘイトスピーチも言論の自由に含まれる」らしいのである」について言うなら、米国の法廷が結果としてヘイトスピーチの法規制を斥ける判断をしたとしても、そのことは裁判官たちが「アメリカ市民は自らの社会に存在するヘイトスピーチに関して何もしなくてよい」と考えている、なんてことを意味しませんし、アメリカの法学者や市民たちがみな「ヘイトスピーチの法規制なんてあり得ねーだろJK」と考えている、なんてことも意味しません。発端となった「判例」というのがサリバン事件のそれのことだったかどうかは別としてその判決を参照してみるなら、それが「表現の自由キリッ」でないことは明白です*1。要するに「アメリカ≒在特会?」氏もまた、「表現の自由キリッ」批判を「表現規制容認」としか理解できない人の新たな一例であった、ということです。


以上を踏まえたうえで私が「表現の自由キリッ」をどう用いているかについて述べるなら、「quagma さんの理解よりも少し広い意味で」ということになるでしょう。例えば「性暴力のリスクに対して女は自衛しろ」と言いたくて言いたくてたまらず、「自衛」論を批判されると「俺様の表現の自由はどうしてくれる!」と言い出す人々を「表現の自由キリッ」と評した際には、quagma さんのお考えの通りの意味であると言えるでしょう。他方で、コミック・アニメ・ゲーム等の表現規制であるとかヘイトスピーチ歴史修正主義的主張の法的規制の是非が問題になっているときには、「本来「表現の自由」の出番ではない場面」とは言いがたいわけです。こちらの文脈で「表現の自由キリッ」が意味しているのは、「法規制に反対ないし消極的なのはいいけど、表現がはらみうる暴力については考えてなにかしらの対処をすることが必要だよね?」と言ったら「お前は表現の自由に紐をつけるつもりか!」とはねつけたり、「ドイツやフランスでホロコースト否定論が禁止されているのにはそれなりの歴史的事情や議論の積み重ねがあるのだから、それはそれで尊重すべきでしょ?」と言ったら「いや、ありえねーって、それ」と返すような態度(注:いずれもそういう人は実在しました)のことです*2

*1:法廷意見とは別に二人の判事による意見が付されており、それらはいずれも法廷意見では市民による公務員の行為に対する批判の自由を保護するには十分でない、という趣旨のものです。ということは、法廷意見は「より大きな自由を保障すべき」という判事団内部の意見との対決を経て、そして言うまでもなく「損害賠償を認めるべき」という被上訴人の主張との対決を経たうえで導かれたもの、ということになります。なお、サリバン事件で問題になっているのはあくまで公務員の公務に対する批判が相手にとって「不快」「名誉毀損」的なレベルに達していてもなお批判の自由が保障されるべきか? であるという点には留意する必要があるでしょう。

*2:言うまでもなく、ありとあらゆる表現についてその自由を無条件で保障している社会なんて存在しません。自由を保障することによって得られるものと失われるもの、法規制することによって得られるものと失われるもの、これらを比較衡量することにより「どこで線を引くか」が決められるわけですが、この線引きは状況が変われば改めて論じ直すこともできますし、「法規制しない側」に位置づけられた表現についても「法規制以外にどんな手段があるか」を論じる必要があります。「表現の自由キリッ」とはそうした議論自体をはねつける態度である、と言い換えることもできます。