措置入院と刑法39条(追記あり)


この数日何度か言及してきましたが、現在の日本では「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」や「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」によるいわゆる措置入院というかたちで“犯罪を犯すおそれのある”精神障害者精神病者の身柄が拘束される、ということは現実に生じています。入院していない精神障害者が重大な犯罪を犯せば大きなニュースになりますが、日常的に行われている措置入院については(時折マスコミがとりあげることはあるものの)多くの人がほとんど意識しないまま暮らしている、というのが実情ではないでしょうか*1。刑法39条が「タブー」になっているという指摘は度々なされますが、では措置入院がどのように運用されているかについてこの社会が関心をもってきただろうか? というと大いに疑問だと思います。
昨日(13日)の朝日新聞書評欄で『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』(大熊一夫、岩波書店)という本が紹介されています。欧米では60年代から精神病院に精神障害者精神病者を閉じ込める方針を見直しはじめました。日本に対してもWHOが68年に精神病棟を減らすよう勧告しましたが、日本はそれを無視しました。07年のデータでは全病床数1,620,173 に対し精神病床は351,188 にものぼります(全体の20%以上。平成21年版厚生白書より)。人口1万人あたりの精神病床数がイギリスでは10、カナダで4なのに対し日本は28、と突出して多く、かつ平均在院期間もイギリス86日、カナダ22日に対して日本は331日です(芹沢一也、『狂気と犯罪』、講談社+α新書)。
つまり、“危険な精神障害者を野放しにするな!”などと叫ぶまでもなく、欧米との比較で言えば、日本の精神障害者精神病者はすでに十分に自由を拘束されているわけです。精神障害者精神病者が地域社会のなかでなるべく加害者にも被害者(冤罪被害者含む)にもならずに暮らしてゆけるための支援が極めて手薄であって、いまだに精神病棟に閉じ込めるという“対策”が主流であるのが日本の現状なのです。刑法39条があまり議論の対象とならないことは、このような“精神障害者精神病者を市民の目の届かないところに隔離する”政策とセットである、と言うべきであろうと思います。


追記:このエントリにトラックバックを送っているエントリについて。
(1)ここでは文脈上“いまだ犯罪を犯していない人間が自由を制限されるケース”が主題。「犯罪を犯すおそれのある精神障害者精神病者の身柄が拘束されることがある」を「犯罪を犯すおそれのある精神障害者精神病者だけが身柄を拘束される」などと理解するとすれば、それは読者の責任でしょ。
(2)措置入院が多いから精神病床数が多い、なんて因果関係は主張してない。主張しているのは精神病床数の多さに現れている日本の精神障害者精神病者政策と、刑法39条のいわゆるタブー化との関係。
(3)しかるべき手続きを踏まずに実質的には“犯罪を犯すおそれがある”という理由で身柄を拘束されているケースもある。cf. http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090318/p2


再追記:このエントリを書いた経緯がちょっと複雑なので、いま思うと確かに複数の文脈が交差してしまっているところはある。というわけで補足。
渡辺淳一曾野綾子の放言に端を発するやりとりのなかで「表現規制? ありえないだろ常考」派が誤解に基づいて「予防拘禁? ありえないだろ常考」と言い出す。
・「表現規制? ありえないだろ常考」に比べれば「予防拘禁? ありえないだろ常考」についてはほとんど同意と言ってもよいのだが、しかし現実にはそうなってない(予防拘禁に近いことは制度として存在する)という意味でやっぱり考え方が単純すぎる……と思って、例えば http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20091210/1260447561#c1260671182 などを書いた。
といった文脈が一方であり、他方
・日曜日に『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』の書評を読む。
・他の人のブクマ経由でたまたま、刑法39条に対する複雑な思いを表明したブログの記事を読み、日本には累犯精神障害者を「拘束」する制度がないと思っているらしいことに気づく。
という文脈があって、当初はそのブログの記述を引用したうえでエントリを書いたものの、トラックバックを送る直前にそれが2年前の記事であることに気づき、急遽書き換えた。そのため、第二の文脈が明示されないこととなった。

*1:犯罪少年、触法少年の処遇が話題になることはあっても虞犯少年の処遇が関心を引くことはほとんどない、というのとパラレル。この注追記。