念のため

すでにどこかで指摘されていたようにも思うが、強調しすぎるということもないと思うので。
例の曾野綾子の一文を載せた産経新聞渡辺淳一のコラムを載せた『週刊新潮』が、いずれもアンチ“過激な性教育”キャンペーンに加担したメディアであることは偶然でもなんでもありません。「一方で自衛しろ、と書かせておいて他方で自衛のために必要な性教育を批判する、ってダブスタじゃね?」というのはあたりません。産経・新潮的な言説のセクシュアリティに対する首尾一貫した態度がここに現れています。性犯罪にせよ「望まない妊娠」にせよ、これらは産経的思考によれば共同体が(主として)女性の性を監視・管理することによって防止されるべきことであって(だから避妊しなかった男より“身を任せた”女が問題視される)、(主として)女性が性的自律性を獲得する(また各人が各人の性的自律性を尊重する)ことによって防止されるべきことではないからです。産経などの性教育バッシングが養護学校でのその実践にまで向けられたことはよく知られています。知的障害者は(男女ともに)性暴力の被害者になりやすく、また(主に男性は)本人に犯意はないのに*1結果として性犯罪に該当する行為を行ってしまったり冤罪被害者にされてしまうといったリスクをより多く背負っています。であれば、「この社会ではなにが性的なことがらとされているか」についての理解といった基礎的なことを含めて、「自衛」のための支援が必要であるはずです*2。しかし産経的思考にとって、性教育は障害者が可能な限り性的に自律的であろうとするための(と同時に、できる限り他者の性的自律性を尊重できるようになるための)手段ですから、決して「自衛(の支援)」とは理解されず「放埒(のすすめ)」ということになってしまうわけです。

*1:これはもちろん知的障害者による性犯罪の全ては犯意がないということではなく、コミュニケーションの齟齬や「なにが性的なことか?」についての誤解ゆえに犯意のないまま性犯罪に該当する行為を行ってしまうこともある、ということです。

*2:もちろん、この場合叫ぶべきは「もっと自衛を!」ではなく「もっと支援を!」です。