(正確には「比喩」ではないのだが)この場合どちらがより問題かと言えば「比喩」より「フィクション」の方である件について

これはもう曾野綾子の件とはほとんど関係がないんだけど。

Yagokoro フィクションと現実の政治的言説における比喩表現を同一線上に並べるとは正直思わなかった。だからフィクション規制を叫んだ連中と面子が共通してるのか。納得した。 2009/12/08
(http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091207/p1)

「納得」しちゃってますがこのひとは現実と脳内現実の区別ができていないようです。ここで「面子」と言われてるのは私以外に hokusyu さんとか Dr-Seton さんとか tikani_nemuru_M さんとか uchya_x さんたちだと思いますが、さしあたりこの5人が陵辱ゲーや二次元“児童”ポルノなどの表現規制問題について共通してもっている見解は言論の自由! だから表現規制はダメ! 終了!」で済ますべきではない、というものであって「規制しようぜ」なんて主張は誰もしてません。他人の主張をここまで粗雑に把握することを可能にするものこそ党派性だろうと思うんですけどね。二次元エロ表現を手放しで擁護するもの以外はみな規制論者だ! と。
さて、上のブコメはもう一つ、「男は獣」という「比喩表現」と「フィクション」とを比較し、前者の方が後者よりも罪深いというか批判に値する、という認識を示しています。これは彼一人の孤立した認識ではなく、わざわざエントリまで書いた人もいます。

そりゃま、「比喩」と「フィクション」というのは全然水準が異なる概念なので「違う」には決まっとるわけですが。以下は「規制なんてダメだろ常考」への批判を直ちに規制賛成論へと変換してしまう人には伝わらないはなしだと思いますが、似たようなコメントをいくつも見かけますので一応書いておきます。
まず第一に、例えば Francesco3 さんが「獣は檻にいれとけというお話し」と題するエントリを書かれた際の「獣」、あるいは hokusyu さんが「「男はケモノ」が「女性の自衛」と結びついていること自体が差別」というエントリを書かれた際の「ケモノ」は「比喩」じゃありません。渡辺淳一的な言説にみられる「獣」や曾野綾子的な言説が前提する認識にみられる「獣」については「比喩」と言ってよいとしても(hokusyu さんなどが指摘しているように、ここには「比喩」として片付けられない問題もありますが、まあレトリックの分類に当てはめるなら「比喩」ということになるでしょう)。なぜか? 簡単なはなしであって、Francesco3 さんや hokusyu さんは男を獣に「喩える」ことによって男の行動様式をわかりやすく表現することを目論んでいるわけではないからです。レトリックの分類で言えば、「獣は檻にいれとけというお話し」は皮肉(アイロニー)です。ここで「皮肉とはなにか?」について長々と論じても仕方ないのでそこは省略しますが、皮肉(アイロニー)の主要な指標として批判しようとする相手の主張・発想を取り込んでいるということをあげることができる、という点は論証の必要のないことでしょう(ソクラテスはまさに相手に語らせることによって相手の無知を明らかにしたわけです)。例えばあなたが家を出ようとするとき、家族の一人が「今日は暖かくなるからコートは要らないよ」と言ったとします。ところが昼過ぎ当たりから冷え込みがきつくなり、帰宅する頃にはガクガク震える始末だった。帰宅したあなたが「いや今日はえらく暖かい一日だった」と言えば、これは皮肉として機能するわけです。
このとき、あなたが本当に「今日はえらく暖かい一日だった」と思っているわけではないのと同様に、「獣は檻にいれとけというお話し」およびそれに連なるレトリックも「男は獣である」という認識を前提しているわけではありません。「男は獣」という発想それ自体に語らせることにより、「男は獣」という発想を批判しているわけです。「男は獣」という発想にコミットしていないのですから、その帰結であるところの「檻にいれとけ」にもコミットしているはずがありません。むしろその反対の発想にこそコミットしているわけです。
では「フィクション」*1の方はどうでしょうか? フィクションを創作する、あるいは享受する者はそのフィクションの世界に対して(少なくともある水準においては)肯定的にコミットしているはずです。もちろん、フィクションに肯定的にコミットすることは、それが現実となった場合にその現実に肯定的にコミットすることとは異なります。しかしそれを言うなら、皮肉のために「男は獣」という比喩を借用することはその比喩や比喩からの帰結にコミットすることではない。むしろその比喩に対立する立場にコミットしているわけです。しかしフィクションの創作や享受は肯定的なコミットメントであるか、少なくとも肯定的なコミットメントを含んでいます。したがって、もし「男は獣」を含む皮肉が非難に値するというのであれば*2、(現実世界では著しい人権侵害となる状況を描いた)フィックションの創作や享受の方がそれ以上に、はるかに非難に値することになります。
このエントリも「もし」以下を無視して「フィクションを非難した!」と読まれちゃうのでしょうね、一部の人には。


追記

aminisi 単なる皮肉、ユーモアだというならば「ネタにマジレスかっこわるい」だけで終わらせるべきだったのでは。「獣は檻へ」は「男は獣」に対する反論としては優れていないしそう扱われるなら異論があってもいいとは思う。 2009/12/08
(http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091208/p1)

第一に誤読している人間が一人や二人ではないし、主に hokusyu さんがあれだけ説明しても誤読を誤読と認められない人がいる。第二に、その誤読がしばしば女性に対する抑圧の過小評価とセットになってる。第三に、この場合の皮肉は「ユーモア」を目的とした「ネタ」ではなく、「男は獣」やそれが含意する「自衛しろ」論が一体なにを隠蔽しているのか、その欺瞞を暴くのが目的。だとすれば「獣は檻に」という結論が回避されていることは指摘せざるを得ない。第四に「いや、やっぱり男は獣だってば」なら「異論」になるが「男の予防拘禁を主張してる!」とかいうのは難癖にすぎないから。降り掛かる火の粉は払わねばならぬ。

*1:ここで問題になるのは、もしそれが現実なら疑う余地なく人権侵害であるような事態を描いたフィクションです。

*2:まったくもってバカバカしい主張ですが。まあもちろん、批判の対象がそれをコピーすることすらはばかられるほどの表現である場合なら、それを批判するという目的ではあっても皮肉という手法は用いない、という選択はあるでしょうけど。