「情況」の問題。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091217/p1
上記エントリのブクマで id:y_arim 氏が次のように書いているのをみて「ひとこと書いておかなきゃ」と思っていたのだが、ちょっと時間が取れなくてさぼっていた。

y_arim expression, 表現の自由, law ちょっと待った。その「超論理」を用いて性差別を批判してきたように思えたのだが、ぼくの誤読か個別論か? 2009/12/17

そうしたらこんなエントリまで登場。「超論理」にしても「性差別」批判にしても東浩紀にしても、いずれも他人事ではないので名指しされたわけではないがエントリにまとめることにした。

Aという主張は可能であるということをAを主張する者がいる情況の中で認めたら、それはAを主張しているのと同義である。

発端となった「超論理」の定式がこれ↑。結論から先に言えば「情況」を「Aを主張する者がいる」だけに集約して書いてしまっているので、見かけ上東浩紀などと矛盾するように見えるだけ、ということ。
まず「Aという主張は可能である」という命題は「Aである」を含意しないので、「Aという主張は可能である」という主張は「Aである」という主張と必ずしも等価ではない。ここまでは誰しも同意することであろう(したがって中立的な文脈において、ないし文脈を捨象して考えれば「Aという主張は可能であるということをAを主張する者がいる情況の中で認めたら、それはAを主張しているのと同義である」はやはり「超論理」である。この括弧内は追記)。だが逆に言えば、命題ではなく主張としての「Aという主張は可能である」は「Aである」と等価である、あるいはほぼ等価であるというケースはありうる。「情況」次第で。

 人間は人を殺すことができる、ということに同意するならば、人を殺したがってる奴らは現にいるのだから、それは人殺しに同意したことになる、ってことになる。

これが「超論理」であることが誰にとっても明白なのは、「人を殺すのはよくないことである」という前提はほぼすべての人間が共有しているものと想定されているので、読者は「人間は人を殺すことができる、ということに同意」した人間もデフォルトでは「人を殺すのはよくないことである」を受け入れているものと考えるから。明示的に「誰それなら殺してよい」などと書いていた場合にはじめて、このデフォルトの前提を撤回して「そうか、人殺しに同意しているのか」と考えるわけである。
一般化するなら、「Aという主張が可能」であることについて異論がなく、かつAが好ましいことがらではないという前提が共有されている場合、「Aという主張は可能であるということをAを主張する者がいる情況の中で認めたら、それはAを主張しているのと同義」は「超論理」となる。他方、「Aという主張が可能である」という認識が一般的でない場合には、「Aという主張は可能である」と認めることは「Aを主張している」と思われても仕方がない。例えば「永久機関をつくることができるという主張は可能である」など(後述するように、あずまんのケースはこれに近い)。
さて、「表現の自由キリッ」批判について言えば、「(十分な合理性のない)表現規制はよくないことである」がほぼすべての人間によって共有されている、とは想定できない。しかしながら、少なくともはてな内に限れば、「表現の自由キリッ」批判者のすべてが表現規制に対する批判的・消極的な立場を明文で表明していたはずである。暗黙のうちに共有されているとはいえなくても明示的に「Aは好ましくない」と断っているのだから、議論に参加している人間は「(十分な合理性のない)表現規制はよくないことである」がほぼすべての人間によって共有されていると想定すべきなのであり、それゆえ「表現規制を容認している」は「超論理」なのである。
では東浩紀批判のケースはどうか? Lobotomy氏の論難の致命的な瑕は、東が「絶対的な真実はない」という前提のもとで語っていること(ご丁寧に、南京には行ったけど「実感」は持てなかった、というオマケつきで)をネグっている点にある。いくら「個人的には南京事件は史実だと思っている」とエクスキューズしたところで、「絶対的な真実はない」とする以上、東は「南京事件否定論を主張することは好ましいことではない」という主張に(少なくとも全面的には)コミットしていないのである。これだけでもすでに「南京事件否定論に加担した」と言われても当然なのである。もう一つスルーされているのは、現にすでに南京事件否定論が公然と主張されている情況で、単に「南京事件事件否定論を唱えることも可能である」と主張するにとどまらず、「南京事件否定論にも場を与えるべきである」と東が主張した、という点である。だから、そもそもあずまんのケースは厳密には「Aという主張は可能であるということをAを主張する者がいる情況の中で認めたら、それはAを主張しているのと同義である」という定式には収まらないのである。そこをあえて収めてみるなら、「南京事件否定論を主張することは不可能、というコンセンサスが学問的にはある」にもかかわらず、あえて「南京事件否定論を主張することも可能である」と主張したのがあずまんであるわけだから、上記永久機関のケースに近い、と言わねばならない。
では「性差別」批判の方はどうか? ここで「A」にあたるものがなんであるのか、y_arim氏が明示していないので断言はできないが、とりあえず「自衛」であると想定してみよう。とすれば「自衛せよという主張が可能であるということを自衛を主張する者がいる情況の中で認めたら、それは自衛を主張しているのと同義である」が「超論理」かどうかが問題だということになる。しかしながら、「自衛」論批判は(1)「自衛は可能だ」と指摘した者に対して「お前は自衛しろ、と主張している」というかたちで行われたのではなく、「自衛しろ」と明示的に主張している者に対して「その主張は犠牲者非難である」というかたちで、あるいは(2)そもそも「自衛」論者が主張するような意味で「自衛」が可能なのかどうかを問題視するかたちで行なわれたのであるから、「Aという主張は可能であるということをAを主張する者がいる情況の中で認めたら、それはAを主張しているのと同義である」という定式とは合致しないのである。