そんなに言うなら証拠だそうじゃないの

rag_en 表現・思想 「表現の自由キリッ」を批判してるっつーことは、やはりお上による規制を肯定してるって意味でしょ。僕だって、鍋の写真に椎茸を入れるなと批判する事は是だろうけど、それを表現の自由否定として語っちゃダメでそ。 2009/12/16
(http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091215/p4)

ほんと、うんざりするなぁ。「表現の自由キリッ」批判が「表現規制だっ!」って思えちゃうのは、そっちが表現の自由を「無際限に保護されるべき/そうなければ法規制」と思い込んでるからであって、そんなトンデモな前提をこっちに投射されても困るんだってば。
某所で投稿したコメントをコピペしておく。文脈が若干違うので地下猫さんとかシートン先生などには言及がないが、とりあえず hokusyu さんと私がカヴァーされてるからいいでしょ。

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20091008
>マッキノンと袂を分かつとすれば、ポルノが文化的暴力で「も」あることは仮に認めるとしても、それに対して規制という手段が取られるべきか、という点ではあろう。その点を問題にするならわかる。


http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20091004
> このように、法は技術的制約ゆえに目指された正義とズレてしまうのが不可避です。だからこそ、法と正義の隙間を埋めるための、真剣な思考と実践が要請されるのです。具体的には、数々の差別的発言・差別的実践に対して、できる限り多くの怒りを表明すること、できる限り多くの反差別発言をもたらすこと、できる限り多くの反差別的実践がなされることが要請されています。差別をなくすことができないとしても、差別と戦うことはできるし、差別がもたらす悲惨を減らすことができるし、差別される人々を勇気づけることができるし、差別に対して共に戦うこともできます。それを実際になせばよい。少なくとも、それをしてから、後のことを考えるべきです。*2
 そして、そのような試みがなされることだけが、「ヘイト・スピーチに対する法規制」のような強権発動の必要性を減らすことができます。あるいは、(強権発動をしない場合には)「表現の自由」のための生け贄を減らすことができます。だったら、最低限、その程度のことはやるべきです。


http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090611/p1
> ただし、ぼくはだから陵辱ゲームも規制すべきであるとは思いません。黒人差別ゲームが問題なのは、人を殺しているという暴力性がゆえんではなく、それが人種差別・民族差別の文脈において人を殺しているから問題なのです。つまり、当然表現の自由は原則として保護されるべきであるが、個別的には保護されないものがある。陵辱ゲームが問題になっているのはその個別性のゆえんであって、ポルノ一般とか暴力一般、あるいはあらゆる表現において表現の自由とは何ぞやという抽象的な理念型の話では、とりあえずはない。


http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090716
> 確かに、いかなる「リベラルな」規制論(たとえば今回の民主党案)でも、それが市民の自由に対する重大な侵害を含んでいる可能性はある。


あとは手前味噌ですが
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090602/p1
>法規制は特定の個人の人権が具体的に侵害される場合に限るべきだ、というのは正論ではある。表現による暴力のうち特定の個人への具体的な侵害になっているものとそうでないものとの間に線をひくことには一定の合理性がある。しかしこの合理性は「ここに線をひけば表現による暴力に効果的に対処できる」という性格のものではなく「これより向こう側に線をひけば弊害がある」という事情によるものだから、「法規制に反対するとして、それからどうする?」が問われることになる。