『足利事件』解説について補記

金曜日に書いた二つのエントリのために思いのほか週末に時間をとられたので先延ばしにしてしまっていた件。
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091020/p1
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091020/p2
http://d.hatena.ne.jp/kingworld/20091021#p3
http://d.hatena.ne.jp/kingworld/20091021/p3


id:kingworld東浩紀擁護論は、東が「小林氏は(……)彼の人生そのものが、周囲の視線にとっていかに「怪しい」ものに見えたのか、その状況を残酷なまでに炙り出していく」と書いた際の「周囲」が「主に警察、検察、マスコミをはじめ、一審弁護士」を指すものだ、という仮定に支えられている。しかもそのことは「実際に解説を読めば」わかる、と。ではまず、問題の一節を含む箇所を少し長めに引用してみよう。

 いまでは、菅家氏が冤罪の犠牲者であることはだれもが知っている。だからマスメディアの関心も自白の強要とDNA鑑定の危うさに集中している。むろん、この二点は最大の問題で、今後も十分な検証が求められることはまちがいない。そもそも本書の前半の記述を読むかぎり、菅家氏による犯行が不可能だったことは明らかだ。なぜ彼が犯人とされてしまったのか、いまとなってはそちらのほうが不可解である。
 しかし、本書の後半を読み進むにつれて、読者は、菅家氏が犯人とされた理由が必ずしもその二点のみによるものでないこと、そしてそんな「だれの目にも明らかな真実」が驚くほどたやすく偏見や予断により上書きされていくことを理解することになるだろう。
 実は本書の魅力はここにある。小林氏はそこで丹念な取材を積み重ねることで、菅家氏の生活や家族構成、職場、経歴、発言そのほか、つまりは彼の人生そのものが、周囲の視線にとっていかに「怪しい」ものに見えたのか、その状況を残酷なまでに炙り出していく。その筆致を「残酷」と形容するのは、そこでの小林氏の記述が、菅家氏の私生活の敏感な部分にまで踏み込むものであると同時に(しかしそれが不可避であることは記述を追えば明らかになる)、またぼくたち自身の予断や偏見をみごとに抉り出すものだからである。
 菅家氏は離婚経験のある独身の中年男性で、転職を繰り返し、週末は小さな借家でひとり暮らしをしていた。恋人もいなければ親しい友人もなく、趣味らしきものもない。職業は幼稚園のバス運転手で、職場では疑いの目で見られ、成人女性との性交渉に困難を抱えるとの情報もあった。そして取り調べに対しては、当初の半日こそ否認したものの、そのあとは屈託なく犯行を認め、控訴審でも自白には強要がないと否認している。この全体像には、どこかぼくたちの日常の直感に触れるものがある。なるほどたしかに菅家氏の当日の行動は現場の状況と矛盾するのだろう、しかしそんな些細な矛盾はあとで埋めていけばよいのではないか――そんなふうにひとを「誤解」させる要素に満ちている。少なくともぼくは、もし上記のプロフィールのみを見せられ、このひとが犯人だと思うかと訪ねられたのなら、ぼく自身頷いてしまうのではないかという疑いを捨てきることができない。
(521-522ページ)

これを読んで「周囲」とはなるほど「主に警察、検察、マスコミをはじめ、一審弁護士」といった、語の通常の意味では決して菅家さんの「周囲」にはいなかった人々を指すのであり、近隣住民、職場の同僚や児童の保護者、行きつけの店の従業員や他の常連客といった語の通常の意味で菅家氏の「周囲」にいた人々を指すのではない、と直ちに理解するひとがおられたら、ぜひともコメント欄にて名乗り出ていただきたい。実のところ、東の解説を多少なりとも意味の通るものとして読解するためには、この「周囲」を「主に警察、検察、マスコミをはじめ、一審弁護士」を指すものとして理解することが不可欠である、ということには同意してもよいのである。しかし「主に警察、検察、マスコミをはじめ、一審弁護士」と言いたいのならそう書けばいいのであって、通常の日本語読解能力の持ち主にとって「(菅家さんの)周囲」という表現は「主に警察、検察、マスコミをはじめ、一審弁護士」を意味するものとは解し得ない。実は「主に警察、検察、マスコミをはじめ、一審弁護士」を指すのだという解釈が出てくるのは、東の解説だけではなく小林氏のルポ全体を読み、DNA鑑定の(現在では誤りであることが判明したといってよい)結果が出て菅家氏が「自白」するまでは、「彼の人生そのものが(……)「怪しい」ものに見えた」などということはなかった、ということを知っていればこそである。そうした予備知識なしに東の解説を読めば−−そう、文庫本の解説は必ずしも本文を読了した者だけが読むとは限らない、その本を買うかどうか決めるための参考とするために立ち読みする人間だっているのである−−「周囲」が「主に警察、検察、マスコミをはじめ、一審弁護士」を指すというきわめて特殊な読解をする人間はまずいないだろう。
さらに、上の引用箇所の最初の段落が示す通り、東の解説は世間の関心がDNA鑑定(の誤り)と自白の強要に集中しているという文脈を相対化することを目論んでいるのである。そうであればなおさら、DNA鑑定や虚偽自白とは独立に「怪しい」と思わせる要因が菅家さんの側に多々あったのだ、という理解を読者は促されることになる。しかし小林氏のルポを読んだ者が理解するのは、あらゆることが菅家さんの“有罪”を示唆するかのように解釈され始めるのはDNA鑑定とそれを前提とした虚偽自白以降のことであり、DNA鑑定で“当たり”が出るまでは現場の捜査員も「こいつが犯人だ」という確信を持てなかった、ということなのである。被疑者が「自白」したあとで捜査関係者や裁判官があらゆることを被疑者の有罪を示すものとして理解してしまう、などということは足利事件に固有のことでもなんでもなく、それゆえ小林氏のルポのツボでもなんでもない。
私は「東の解説を多少なりとも意味の通るものとして読解するためには」と書いた。id:kingworld がどうしても「問題があるのは東の読解力ではなく文章力である」と言い張りたいというのであれば、面倒くさいからそういうことにしておいてもいいや、と思わないでもない。しかしながら、「周囲」を「主に警察、検察、マスコミをはじめ、一審弁護士」と解することを妨げる事情が存在する。それは東が「周囲の視線にとっていかに「怪しい」ものに見えたのか、その状況」の具体例として「職場では疑いの目で見られ」と書いてしまっていることである(言うまでもなく「職場」の人々は「警察、検察、マスコミをはじめ、一審弁護士」のいずれでもなく、語の普通の意味で菅家さんの「周囲」にいた人々である)。まずこの記述自体がきわめてミスリーディングである。実際に小林氏のルポを読んだ者は、小林氏が強調しているのはむしろ“菅家氏が職場でも疑いの目で見られていなかった”ことであることを容易に理解するだろう。通園バスの運転手というのは、それ自体としては確かに小児性愛との関連を疑う人間がいてもおかしくない職業だと言うことが可能だろう。だが、それにもかかわらず、職場の同僚や園児の保護者などへの小林氏の取材を通じて、菅家さんにその種の疑いをかけた人間は園長ただ一人だけだったのである(園長の息子である理事長は園長の証言をかばうが、自身が積極的に菅家さんを疑ったとは証言していない)。小林氏の取材は菅家さんが概して「職場では疑いの目で見られ」てはいなかったこと、にもかかわらずDNA鑑定と自白がそうした事情を“たやすく上書き”してしまったことを明らかにしている、と理解すべきである。文庫版の「あとがき」で小林氏が「DNA鑑定は、その法医鑑定のじっさいを知る実務家や科学者たちの社会的な責任放棄によって、今日もバブリーな証拠価値を保ち続けていると僕は考えます」と書き、DNA鑑定を巡る強い問題意識を表明していることも付言しておく。
第二に、DNA鑑定以前に菅家さんと小児性愛とを結びつけるような証言をした唯一の人物である園長についても、小林氏は「彼の人生そのもの」に「怪しい」と思わせるようなものがあったからだなどとは書いていない。小林氏の取材に対し、園長は「菅家さんにしても、それ以前にはそんなところは見受けられませんでした」「事件後の六月、七月、八月と過ぎるうちに、だんだんおかしな人だなという印象を持つようになったんです」と答えている。そして小林氏は84年にやはり足利市で起きた幼女殺害事件の被害者も通園していた幼稚園の経営者としての立場が、菅家さんについてのイメージを「変容させた」(241頁)のではないかと強く示唆しているのである。小林氏のルポとは独立に勝手に事件についての想像を巡らしたのならともかく、小林氏のルポについての解説としては、菅家さんを「怪しい」と思わせた要因は菅家さんの「人生」よりもむしろ園長のおかれていた社会的な立場であった、とするのが妥当である。


以上のように、東の解説は小林氏のルポを読まずに解説のみを読んだ読者に対しては“小林氏は、菅家さんの生活ぶりそれ自体に怪しまれる要因が多々はらまれていた、と記述している”という誤解を与えるものであり、小林氏のルポを読んだ読者に対しては“本書における園長の証言の位置づけを大きく誤解している”と思わせるものであることを、改めてここで主張しておく。