実名の卑怯者、逃走す


頼まれたわけでもないのにコメントをしにやって来ておきながら「相手をしてやっているのだということを忘れないようにな」と恩着せがましいことを書いた男が、その後すぐ態度を豹変させて逃げ出した。「バカ左翼と議論をしても無駄だということは歴史が証明しているから」だそうだ。「「有事」のところを見て、君がバカ左翼だと気づいた」のだそうだ。しかしこれまた噴飯もののいいわけである。そもそもこの男は浜田寿美男についてこう書いていたのだ。

 著書多数。中には甲山事件など冤罪に関するもの、私とは何かみたいな哲学系のもの、「こども学」系のものあり。


 なお「子供」という表記は左翼の間では「お供の供」として忌避されておりために「子ども」が一般的だが、筋金入り左翼は「こども」と全ひらがならしい。


 本来の「心理学」はあくまで理系の科学で、東大の心理学ではこれをやっている。しかしいわゆる半ば社会運動左翼系の子供心理学は、左翼の巣窟教育学部でやっている。なお阪大には教育学部はない。


 むろんこの浜田というのは、社会運動家である。

このような認識を持っていたのなら、“浜田に代わって反論して来た男”が「左翼」であることは十分予測可能であろう(一般論として言えば、冤罪に関心をもつのも右派より左派が多かろう)。「有事」というのはこのエントリのことだと思うが、よりによってそのエントリで「君がバカ左翼だと気づいた」というのも解せないはなしではある。もっと左翼っぷり全開のエントリはいくらでもあるだろうに。
要するに、遅まきながら“読んでもいない本をDisる”という研究者にあるまじき所行について「これはまずい」と気づき、口実を探して逃げ出したということであろう。


ところで、実名/匿名論争に関しては、実のところ私は小倉秀夫さんの主張に共感するところが少なくない*1。「実名出してないのに?」と思われるかもしれないが。特に主義主張や都合があって実名を秘したのではなく、なんとはなしに「そんなもんだろう」と思ってハンドルで運営し始めたら既成事実の重みでいまさら名乗りづらくなった……という次第なので。まあ、“実名の卑怯者”の存在は「匿名」派にとって実に好都合でありますな。以下、あらためて jun-jun1965 のインチキっぷりをまとめておく。


出発点にあるのはもちろん、新書一冊すら通読せずに*2的外れな非難を浴びせたという、研究者にあるまじき醜態である。まあたしかに、最後まで読み通さなくても「ダメ本」だとわかることはある。その場合、自分の眼力を賭金として、読み通す前に「ダメ本」だと言ってしまうのはアリだろう。しかし、でたらめな評価を下してしまった場合には自分の見識が問われる覚悟がなければならないが。

 そして端的に言うと、「自然科学においては決着がついているもの、ないしは着々と研究が深化しつつある現象について、それは納得がいかん、とかいって哲学的にアプローチする人」である。こういう人は多い。


 たとえば岩波新書『自白の心理学』は、なぜ人は嘘の自白をするのか、が書いてある。しかし、私たちは映画やドラマで、いきなり警察に同行を求められて、一般人が任意だから帰ってもいいなどということを知らず、二人くらいの刑事に脅したりすかしたりされて、認めれば帰してやるから、形式だけだから、かなんか言われて嘘の自白をしてしまうのをよく知っている。

以上のような評価は、仮に『自白の心理学』が痴漢や窃盗など事情によっては起訴猶予になることもある罪種(それゆえ「認めれば帰してやるから、形式だけだから、かなんか言われて」という利益誘導が有効である罪種)における虚偽自白だけを扱っており、かつそうしたケースで虚偽自白が生じる理由だけを問題としているのであれば、いちおう容認可能なものである。実際には利益誘導による虚偽自白の可能性は「自然科学においては決着がついているもの」というよりフォーク・サイコロジーのレベルで自明とされており、かついくつかの具体的な事件を通して裏付けられている、と言ったものではあると思うが。みんなが「常識」として「そんなもんだろ」と思っていることについて「科学的」な「決着」を付けることにも意味はある。しかし新書で書き立てるほどの目覚ましい発見か? と言えばそうではないわけだ。
しかしながら、実際に『自白の心理学』を読んだ人間ならば容易に理解しうることだが、“起訴猶予になりうるような罪種の事件で虚偽自白が生じる理由”は同書の唯一の主題ではないし、さらに言えば中心的な主題でもない。もしせめて「序」だけでも最後まで読み通したのなら、この本が取り扱う問題が4つに整理されていることに気がついたはずだ(22-23ページ)。すなわち(1)うそとは何かという問題、(2)無期懲役や死刑といった判決もあり得る重大事件でさえ虚偽自白が生じうるのはなぜか、(3)無実の人間がいかにして犯行筋書きを「それらしく」語ることができるのか、(4)それなりに「もっともらしく」作られている自白調書から虚偽をどのように見抜くか、の4つである。jun-jun1965 が「そんなことは誰でも知っている」と言い立てているのはこの4つのうち(2)の問題の、しかも周辺的な事例でしかないのである。まさか jun-jun1965 は「研究者の著作には、誰もが知っているようなことはただの一つも書かれていてはならない」とでも主張するつもりだろうか? そうでない限り、ある本の意義を否定するためにはその中心的な主題(のすべて、ではないにしてもその多く)について「そんなことは誰でも知っている」と指摘せねばならないはずである。ある本が主題とした問題のごく一部、しかも周辺的なケースについて「そんなことは誰でも知っている」と言い立てるのは「言いがかり」としか評しようがない。文句があるなら(1)〜(4)のすべてについて「自然科学においては決着がついている」ことを示してみよ。


私は先のエントリで次のように指摘しておいた。

「映画やドラマ」ならわれわれはカメラが与える視点によって被疑者が「認めれば帰してやるから、形式だけだから、かなんか言われ」る場面を目にすることができるから、自白が虚偽自白であることを知ることができる。しかし現実の裁判にはそのような観察者は登場しない。幸いにして無罪を証明するはっきりした証拠があればよいが、そうでない場合弁護人は「二人くらいの刑事に脅したりすかしたりされて、認めれば帰してやるから、形式だけだから、かなんか言われ」ている場面を目撃していない裁判官を説得して、残された自白調書ではなく公判での否認証言を信用するよう、仕向けねばならないのである。虚偽自白という現象があり得ると理解することと、自白調書から虚偽自白の兆候を見いだすこととはまったく別の事柄である。これを理解できていないのが第一の問題。


第二に、『自白の心理学』でとりあげられている事件のなかには宇和島事件のような窃盗事件だけではなく、甲山事件(殺人)、仁保事件(強盗殺人)、袴田事件(強盗殺人に放火)といった、自白すれば起訴猶予などありえず有罪になれば執行猶予がつく望みもない事件もある(仁保事件と袴田事件は一家皆殺しの強盗殺人だから非常に高い確率で死刑になることはそれこそ素人にも明らかで、実際袴田事件では死刑が確定している)。著者が裁判に関わり著作でもとりあげている事件にはほかに狭山事件があるが、これも自白につながった再逮捕の容疑は強盗、強姦、殺人、死体遺棄であったから死刑になってもおかしくない事件である(確定判決では無期懲役だが、一審では死刑だった)。いずれも「認めれば帰してやるから、形式だけだから」などという利益誘導などでは到底説明のつかない虚偽自白である。

第一点は上記の(4)の問題に対応した指摘であり、第二点は(2)に対応した指摘である。ところがこの批判に対する対応がまた輪をかけて卑劣だった。

客観的な真実は、私はもともと、袴田事件とか狭山事件について、何も言っていないということだ。私が言ったのは浜田美寿男という人の別の本についての感想に過ぎない。
(http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091113/p2#c1258188291)

ここには一つの無理解と一つの嘘がある。まず第一に、「袴田事件とか狭山事件について、何も言っていない」のが「真実」なのはその通りだが、しかしその「真実」はむしろ jun-jun1965 のコメントが言いがかりであることの証である、ということが理解できていない。第二に、私が批判したのは疑う余地なく『自白の心理学』に対する jun-jun1965 のコメントであるにもかかわらず「別の本についての感想」だなどというつまらない嘘*3。先に引用した箇所で『自白の心理学』に言及する際、jun-jun1965 は「例えば」としている。したがって「自然科学においては決着がついているもの、ないしは着々と研究が深化しつつある現象について、それは納得がいかん、とかいって哲学的にアプローチする人」というコメントは、通常の日本語読解力の持ち主にとっては疑う余地なく、『自白の心理学』に対する評価で(も)ある。
さらに jun-jun1965 は私の批判の第一点については完全にネグり*4、第二点についてのみ釈明を試みた。

ではよいかね、『自白の心理学』を全部読んだとしてだよ、「警察が長時間監禁して拷問に近い方法で自白を強要することくらい、誰でも知っていることだ」と書けばよいわけで、するとそれも誹謗になるのかね。

第一に、ここで仮定の話しなど持ち出しても意味はなく、「客観的な真実」としては jun-jun1965 は「二人くらいの刑事に脅したりすかしたりされて、認めれば帰してやるから、形式だけだから、かなんか言われて嘘の自白をしてしまうのをよく知っている」と軽微*5な犯罪についてしか通用しないことを書いたのである。第二に、重大事件の虚偽自白がすべて「警察が長時間監禁して拷問に近い方法で自白を強要すること」として説明できるわけでもない。

 こういう話をすると、たいていの人は「拷問がめずらしくなかった昔ならともかく、いったいいまの時代に、無実の罪をかぶって、自分のほうからこれを認めてしまうようなうその自白がありうるのか」と反問する。なるほど、この二十数件のうち、一九五〇年前後に起こった事件については、過酷な拷問に負けて自白した例が目立つ。しかしその後の事件については直接の肉体的拷問がなされるのはむしろ例外的である。それでもしばしばうその自白が生じる。それはまぎれもない事実である。いったいなぜなのか。

せめてこの↑部分(20ページ)まで読んでいれば、「「警察が長時間監禁して拷問に近い方法で自白を強要することくらい、誰でも知っていることだ」と書けばよいわけで」と軽々しく書く前に「いちおう、最後まで読んでみるか」と思うこともできたはずだ。もっとも、『自白の心理学』の「序」のそのまた冒頭部分で紹介されている窃盗事件での虚偽自白の場合、任意同行での事情聴取がはじまってわずか4時間で(5ページ)、拷問があったわけでもなく(8ページ)、自白したからといって帰してもらったわけでもない(起訴されている)のに自白しているのである。にもかかわらず「二人くらいの刑事に脅したりすかしたりされて、認めれば帰してやるから、形式だけだから、かなんか言われて嘘の自白をしてしまうのをよく知っている」などと書いたということは、目を通したのがせいぜい4ページまでということなのであろう。


以上の過程でただ一つ肯定的に評価できるのは、『自白の心理学』を読み通していないことを正直に認めたこと、だろう。この点については確かに“恥をかくことを回避することよりも客観的な真実を優先させた”と評することができる(笑)

*1:したがって jun-jun1965 が「匿名」による批判にいらだちを隠さないことについても「誰が言ったかではなく、何を言ったかが肝心」的なスタンスで切り捨てるのはよくないと思っていたし、だからこそこれまではあれこれ思うところはあってもほとんど言及してこなかったのである。しかし今回は、“読んでもいない本をDisる”という仁義にもとる振る舞いをしていることが明らかだったので黙っておれなかった。この注追記。/「これまではあれこれ思うところはあっても」の代表的事例はもちろん「シナ」という呼称を用いる点である。他者が自らの呼称について行う要求を似非言語学を盾に拒絶する人間が「実名」だの「匿名」だのを云々するのは噴飯ものだと思う。以上、再追記。

*2:「なぜ虚偽の自白をしてしまうのか、などと冒頭に書いてあったから」と書いているところをみると、「序」の数ページをぱらぱら眺めた程度なのだろう。そのように推測できる根拠については後述。

*3:『「私」とは何か』に対するコメントについては私は触れていない。

*4:なにしろ『自白の心理学』を読んでいないのだから上記(4)の問題がとりあげられていることを知らず、反論のしようがなかったのだろう。しかし浜田の業績としてもっとも評価されているのは自白調書から虚偽自白の兆候を見いだす供述分析という手法の開発なのだから、この点をネグっている時点できわめてアンフェアな評価なのである。

*5:痴漢や窃盗を一概に「軽微」な犯罪と評するつもりはない。ここでは、実態として起訴猶予処分になるケースが少なくない犯罪、という意味で「軽微」と言っている。