足利事件の供述分析(2)

1995年の『日本教育心理学会総会発表論文集』に掲載された「供述分析 : 足利事件の場合」で言及されている「壁分析」について。

  • 高木光太郎、『証言の心理学 記憶を信じる、記憶を疑う』、中公新書、2006年

本書の構成について簡単に。著者はまず「記憶の脆さ」「ネットワークする記憶」というキーワードで記憶心理学の知見を解説し(第1章〜第2章)、次いで「「正解」のない世界」というキーワードで心理学が目撃証言や供述調書の分析を通じて裁判に関わるうえでの困難を述べる(第3章)。次いで刑事裁判に関わってきた内外の心理学者からエリザベス・ロフタスと浜田寿美男の二人をとりあげそれぞれ一章を割いてその業績を紹介したうえで(第4章〜第5章)、前回紹介した「対話特性に基づく心理学的供述分析(上)(下)」に結実しているような著者たちのアプローチを紹介している(第6章)*1
「壁分析」についての紹介がなされるのは第3章。「「正解」のない世界」とは、研究者が「特権的存在者」として全てをコントロールしている実験から得られる心理学的な知見を、「不確かな断片」としての証言や証拠しか与えられない(「事件がどのように起こったのか、それを断言できる者はいない」(85頁))裁判という場に持ち込むことの困難さを表現したキーワードである。「普遍的な知識」を個別の、一回きりの出来事に応用することがはらむ困難さ、と言い換えることもできる*2。このような文脈で紹介されていることから見当がつくように、結果的にこの「壁分析」は著者にとって十分満足のゆくものではなかったようである。このような姿勢が控訴審のため供述調書の心理学的分析をおこなっていた当時から現在までの10年以上の歳月によるものなのか、それとも分析グループの中での見解の相違なのかはいまのところ確認できていない。
では「壁分析」とはどのようなものだったのか。著者らは供述調書に「周囲の人々の目を気にした様子はまったく語られていない」ことにまず着目する。そこで著者らは「現場」を訪れ(著者らは「生態学的記憶研究」というアプローチに関心をもっていたグループであったとされている)、(被害者が最後に目撃された)パチンコ屋から「犯行現場」までを自白通りに辿ってみる。

 すぐに気づいたことがあった。葦の密生地に入り込んだときだ。遺体遺棄現場にたどりつくには生い茂る葦を掻き分けて進まなければならない。遺体を抱えていたら一歩進むのも苦労だろう。だがSの供述調書や証言ではただ遺体を抱えて運んだとしか記述されていない。
(80頁、原文のルビを省略)

著者も推測しているように取調員は死体を遺棄した経緯について詳細な供述を求めたはずだし、また遺体発見現場の様子は当然頭に入っていただろう。しかし取調べる側とて遺体を抱えて葦の茂みの中を歩く困難について実感をもっていたわけではないので、供述の欠如に気がつかなかった、ということになるのだろう。

 事件の現場を実際に歩くことで私たちが「リアルな時空間」として発見したのは、さまざまな「壁」の存在と不在だった。パチンコ店から葦の密生地の中心部までの移動経路には、犯人の行動のスムーズな流れを妨げ、場合によってはトラブルを引き起こしかねない「壁」が少なくとも二つあった。まず野球場のはずれにあった「草のフェンス」だ。向こう側に抜けるには隙間をさがし、身をかがめてそこを掻き分けなければならない。第二の「壁」は密生する葦である。背が高く硬いこの草は、間違いなく遺体を抱えて運ぶ仕事の邪魔になる。
 犯人はまたさまざまな「壁」の不在にも脅かされたに違いない。何も遮るもののない土手や運動公園を歩くこと。少し離れた橋や対岸が見える護岸壁に立つこと。それらは誘拐した子どもを連れ歩く者が強い警戒心を抱く状況であるはずだ。
 (・・・)しかしSの供述調書や法廷証言には「壁」やその不在についての記述がほとんどない。これはどうにも不自然なのではないか。
(80-81頁、原文のルビを省略)

この「壁」や「壁の不在」に対する無頓着さを一種の「無知の暴露」として理解できるのではないか、というのである。
 だが著者らのこの「発見」は弁護団には不評だったという。著者はその理由を次のように振り返っている。

 よく考えてみよう。私たちが現場を訪れたのは事件から何年も経った後だ。(・・・)分析を有効にするためには、私たちが見つけた「壁」やその不在の様子が、事件のあの日と同じであったことをまず証明しなければならない。それには当時の河川敷の状況についての証拠を集め、それを「事実」として裁判所に認めさせることが必要である。
 私たちは自分の見た河川敷を「現場」だと勘違いしていたのだ。「現場」は私たちの現在にあるのではなく、事件のあの日という過去にある。もはや誰もそこに立つことはできない。(・・・)
(84-85頁)

つまり自分たちの分析が暗黙のうちに「特権的存在者」の視点を採用してしまっていた、というのである*3。もっとも、これは第6章で明かされる新たなアプローチを手にした著者の回顧的な評価である。実際のところ、弁護団としては著者らの分析が「心理学」的に思えなかったのではないか、という著者の当時の推測があたっているのかもしれない。『足利事件 冤罪を証明した一冊のこの本』(小林薫講談社文庫)によれば控訴審弁護団も、表面的には同じように見える主張を法廷で行なっているからである(43頁以降)。

*1:したがって『足利事件 冤罪を証明した一冊のこの本』で援用されている「殺人等被告事件被告人・菅家利和供述研究報告書」についての報告者自身の紹介を手軽に知りたい、という方に本書は役立つ。

*2:そして「普遍的知識」の精度を上げることで実験心理学の観点から言えることについての「ギリギリの挑戦」をしているのがロフタスであり、「特権的存在者が不在の場所」に立ち「内側からの眺め」に肉薄しようとするのが浜田である、と位置づけている。

*3:ただし、著者の反省は、仮に「私たちが見つけた「壁」やその不在の様子が、事件のあの日と同じであったことをまず証明」することができるのであれば、「壁分析」が一定の説得力をもちうることを否定するものではない。この注追記。