『心理学者、裁判と出会う』

  • 大橋靖史・森直久・高木光太郎・松島恵介、『心理学者、裁判と出会う [供述心理学のフィールド]』、北大路書房

「東京供述心理学研究会」を組織していくつかの刑事裁判に関わってきた心理学者たちによる共著。試行錯誤を重ねながら著者たちが自分たちなりのアプローチを確立してゆく過程が語られている。著名な事件としては足利事件と甲山事件(後者は目撃者とされた元園児の供述の分析)がとりあげられている。また暴力団員(ないし元暴力団員)が関与した事件が2つとりあげられ、“供述慣れ”した「巧みな供述者」の供述をいかに分析するか、という問題にも取組んでいる。
これまでに彼らの業績について触れたエントリは以下の通り。特に3つ目は浜田寿美男流の「供述分析」を本書の著者の一人高木光太郎氏がどう評価しているかについてのエントリなので、本書とも関わりが深い。
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091027/p1
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091021/p1
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091110/p2


上で「自分たちなりのアプローチ」という表現を用いたが、これはややミスリーディングな表現である。足利事件の公判での菅家さんの供述を分析した自分たちの手法について、著者らは次のように述べている。

 私たちが今回用いた分析の具体的な道具は、本事例一回限りしか適用できないという性質をもつことを強調しておこう。私たちは、このことを重要なことと考えている。まさにその「一回限り」ということにこそ、ある個人が起こした一回性の事件(もしくは冤罪)を扱う方法論の意義が凝縮されている。
(……)
 供述が抱える問題は、普遍性をもつとは限らないし、法則らしきものに還元されるとも限らない。そのつど提起され、そのつど解決される形でそれは存在している。私たちが供述鑑定において扱っているのは、まさにその種の問題なのである。
(65ページ)

浜田流の「供述分析」が「一般心理学」*1の構想を背景にもった一般性のある分析手法であるのに対し、著者たちのグループは徐々に供述者の個別性、「その人らしさ」に焦点を合わせるようになってゆく。「その人らしさ」というのも文脈を超えて存在する一貫性のようなものではなく、「特定の活動場面において反復して観察される「文脈内的な安定性」(161ページ)として捉えられねばならない、というのである。供述を分析する際に何を単位とするか、といった基本的な点すら事件ごとに変わりうるとされている。したがって、彼らの「アプローチ」とは供述を分析するための手法というレベルのものではなく、個々の供述を分析する手法を見出すための方法である、ということになる(著者らはそれを『想起の心理学』(1932)の著者バートレットが提唱した「スキーマ」概念にちなんで、「スキーマ・アプローチ」と名付けている)。
これは“科学がいかにして個別的なものについて語るか”というより一般的で重要な問題の一つの具体化であるとみることができ、その意味でも興味深い。他方、刑事裁判という観点に即して言えば、浜田流の供述分析が「〔供述の〕変遷の背後に誘導や二次情報の影響を推測したとしても、それは1つの可能性の提示であり、他の可能性を排除することまではできないのではないか」(73ページ、著者たちがまだ浜田流の供述分析を踏襲していたころに研究会で受けた批判のことば)という問題とも関わってくる。著者たちは自分たちのアプローチを、個別の事件の個別的な供述者について「確実なこと」(162ページ)を語ることを目指すものだ、と理解しているようである。
原則論としては、刑事裁判において弁護側は*2(再審の場合をのぞけば)被告人が犯人ではないという蓋然性が無視できない程度に存在することを明らかにすれば十分であるのだから「確実なこと」までは要求されないはずだ、と言うこともできる。もっとも、裁判官が(あるいは裁判員が)無罪判決を出すよう後押しするには実際問題として「確実なこと」が必要だ、ということであればそれはそれで現実であろう。

*1:これについては前掲拙エントリの3つ目を参照。

*2:従来の刑事裁判では、供述の心理学的分析を行う動機をもつのは事実上弁護側だけであったので。もし裁判所が捜査段階の調書の証拠能力を軽々には認めないという方向へと変化していった場合、検察側が同様な手法で対抗することがあるのかどうか、興味のあるところである。