袴田事件・供述の変遷とその分析 その1
浜田寿美男氏の『自白が無実を証明する』(北大路書房)によりつつ、袴田事件における自白調書の供述分析について少し具体的に紹介したい。とはいえ、その全体を(著作権法に配慮しつつ)紹介するのは手に余るので、ここでは犯行当時の着衣を巡る供述の変遷に絞ってみていくことにしたい(ちなみに同書では他に犯行動機、凶器、殺害と放火の場面、裏木戸からの出入り、といったポイントでの供述の変遷も分析されている)。
袴田事件とは1966年6月30日に起こった一家四人殺害の強盗殺人・放火事件である。被害者の一人が専務を務めていた味噌製造会社の住み込み工員だった袴田巌死刑囚(『自白は・・・』では再審請求中という立場*1に鑑みて「請求人」という呼称を用いている)が容疑者として浮かび、事件から約1ヶ月半後の同年8月18日に逮捕、9月5日までは否認していたが6日に自供を始め、拘置期限ぎりぎりの9月9日に起訴、68年9月11日に一審で死刑判決(静岡地裁)、76年5月18日に控訴棄却(東京高裁)、80年11月19日に上告棄却で死刑が確定した。その後袴田死刑囚は日弁連などの支援を得て再審請求に挑むも今なお獄中にある。
この事件では警察官の録取した自白調書が28通、検察官の録取した調書が17通、計45通の自白調書が残されており、その全てが証拠申請された。ところが一審の静岡地裁は警察での自白調書全てを任意性に疑いがあるとして排除し、かつ検察での自白調書についても16通を起訴後の取り調べによるものであるという理由で排除したため、捜査段階での自白調書としては拘置期限の最終日に録取された一通の調書のみが証拠採用された。警察での調書の任意性を疑いながら、警察での取り調べの延長線上にある検事調書には任意性を認める・・・という時点で「市民感覚」*2からずいぶんと乖離した判断であると思わざるを得ないが、他の調書が証拠から排除されてしまったためにかえって供述の変遷が持つ意味が見えなくなってしまうという問題もある。供述分析においては、自白に転じて以降の全ての調書を考察の対象とし、その変遷が“真犯人が徐々に真実の告白へと追い込まれる過程”であるのか、それとも“無実の人間が手探りで犯行筋書を想像してゆく過程”であるのか、そのどちらの見方が供述の変遷をより合理的に説明するか、が検討されることになる。
次回は犯行当時、および犯行直後の着衣に関する供述の変遷について、そのあらましをまとめる予定。