取調べの可視化を阻むもの

『〔新版〕狭山事件 虚偽自白』で新たに収録された対談(庭山英雄(弁護士)×浜田寿美男、司会=笠松明広(解放新聞社))より。『部落解放』05年11月号からの転載。

浜田 (・・・)
 取り調べをする側からすると、取り調べというのは、たんに本人に自白をさせるということだけじゃなくて、謝罪をさせる、更正の一環と位置づけている。ある検察官は、“懺悔の場”だと言っている。だから、証拠が明白にある事件でも自白を求めるんです。自白させて反省させることに意味があると思っているんです。そんな懺悔の場にビデオテープを持ち込むなんて、とんでもない。一対一の人間関係のなかで本当のことが引き出せるんだと。録音テープなんて持ち込んだら、本当のことを言わなくなるじゃないかと。こういう発想なんですね。
 アメリカの社会学者が、日本の警察研究で言っているんですが、日本の取り調べの大きな特徴は謝罪追及ということにあると。情報収集ということよりも謝罪をどうやって引き出すかにある。しかし、取り調べは、本来、尋問ではなくインタビューなんです。単なる情報収集なんです。だから、情報提供したくなければ黙秘するのが、ごく自然なんです。ところが、謝罪ということになりますと、犯罪を犯したということが前提になり、謝罪させるためには自白がどうしても必要になる。
庭山 最近、現役の検察官何人かと会って、自白の問題について議論したことがあるんです。そのなかで、こういうことを言った人がいました。何日もかかって、ようやく自白をさせる。被疑者がポロポロ涙を流して、真実を語りながら悔悟、反省をする。このときこそ検察官の誇りと喜びを感じるんだと。こうなると麻薬みたいなもので、やめられないと。こんな雰囲気が検察庁全体にあるんじゃないかなぁ。
(339-340ページ)

捜査機関が裁判や矯正の機能まで事実上囲い込んでしまっているわけだ。もちろん被疑者が真犯人の場合には、このような取り調べが「更正」の一助になるケースもないとは言えないだろう。うまい具合に「謝罪」と反省を引き出すことができればその分判決も軽くなり、むやみな重罰化を避けることができる・・・というのも場合によっては「更正」を助けるだろう。しかし、本来「更正」の場は刑務所であり(執行猶予の場合や仮釈放の場合には)実社会であるはずだ。謝罪の前提となる自白を求める強い傾向が虚偽自白の背景となるだけでなく、公判でも被告人の弁護権を制約しかねない。庭山弁護士の発言にあるように捜査担当者の職業的使命感と堅く結びついていればこそ、自己批判的なまなざしも入り込みにくくなってしまうだろう。
また、「懺悔」のプロセスが密室で行なわれ、公表されるのは検察官が取捨選択した調書だけ・・・というのは修復的司法の観点から言っても問題だろう。


参考:http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090113/p2