『狭山事件 虚偽自白』

1986年、狭山事件の第二次再審請求の際に著者が提出した鑑定意見書をベースに、1988年日本評論社から刊行された旧版に新稿を加えたもの。袴田事件の供述分析をおこなった『自白が無実を証明する』同様、北大路書房の「法と心理学会叢書」の一冊として刊行されている。目次はこちら
狭山事件の被疑者・元受刑囚(94年に仮出獄石川一雄さんの捜査段階での供述は否認→三人犯行自白→単独犯行自白と変遷しているが、本書ではまずこの「大変遷」を「真実の暴露か,虚偽への転落か」という観点から分析し、ついで犯行の細部に関する供述の「小変遷」を分析する。これらの供述分析の理論的基盤の一つが「嘘の理論」、すなわち虚偽自白は「無実の人間が、突きつけられた証拠・情報にあわせて試行錯誤的に仮説構築した結果」(133ページ)であるというもので、供述の大変遷のうちにこのような意味での「嘘の指標」が見いだされるか否かが検討される。もう一つは「逆行的構成」ないし「論理的構成」という概念である。

 前にも述べたように、真実の自白と虚偽の自白とでは、その供述の心理過程がまったく異なる。真実の自白は、真犯人が実際に行なった犯行の体験を記憶によって供述したものであり、虚偽の自白は、これまでみてきたように、自分が真犯人ならばと想定して、そのうえで取調官の突きつける証拠・情報を、理屈のうえでつなぎ合わせて構成したものである。言い換えれば前者は、体験の流れに即したものであり、後者は論理的構成の要素を多分に含むものである。それゆえ、体験による記憶と論理による構成という供述心理過程の違いが、供述のなかにどう現われてくるかをみることによって、自白の虚偽判別の指標を見いだすことができる。
(199ページ)

実際の犯行は時間の流れのなかで行なわれるのに対して、残された証拠は時間の流れにのってではなく「一度に目の前に与えられる」(200ページ)。そのため、突きつけられた証拠から逆行的に構成された犯行の筋書には「時間の流れに逆らう論理的構成の痕」(同所、原文の強調を省略)が見いだされることがある、というのである。
本書における著者の主張(=石川さんの自白は虚偽自白である)の説得性は供述分析の細部、しかも個々の供述の真偽ではなく供述の変遷過程に着目した分析のディテールにこそあるので、相当量の引用なしにそれを紹介するのは困難である。というわけで、狭山事件ないし冤罪一般、あるいは供述分析に関心のある方にはぜひともご自身でお読みいただきたい(ソフトカバーのため、2,400円と『自白が無罪を証明する』より廉価である)。一点だけ特に印象深い分析を例示するなら、犯行動機に関する供述*1の変遷が、取調官の交替と実によく符合している、というものだろう。供述、特に虚偽自白が被疑者と取調官との「共同作業」であることを考えたとき、この符合は各取調官が犯行についてもっていた「仮説」が供述に反映していることを示している、と思われるわけである。


民主党主導の新政権にとって重要なことの一つは緊急の課題とじっくり腰を据えて取り組むべき課題とをきちんと区別し、前者については滞りなく行なう一方で後者については拙速を避け、政権与党として入手可能になった情報を吟味したうえで政策を構想することであろう*2。この区分に従えば、冤罪の温床とされる諸問題への取り組みは後者に属するようにも思うのだが、他方で足利事件の再審決定、それに先立つ志布志事件や富山強姦冤罪事件の記憶も新たないまを逃せば、取調べの可視化などに対する捜査当局の抵抗も一層強くなりそうだ。取調べの可視化、証拠開示の徹底などを公約している新政権に期待したい。

*1:当初は強姦目的の犯行で、被害者を殺害した後で逃走のための資金を脅迫により得ることを思いついたとされていたが、後に身代金目当ての誘拐を計画し、性的暴行は予定外の行動であったと変更されている。

*2:次の選挙で民主党が負けることはともかく、民主制への信頼が損なわれないためには、やはり少なからぬ有権者が「政権交代には意味があった」と感じられるようにしてもらいたい。