犯罪はさまざまに違っていても冤罪はみな似通っている


HDD/DVDレコーダーというのは便利なもので、一時期ほとんど見なくなっていたテレビの視聴時間が増えているのだが、一日が24時間であることには変わりない。ビデオテープに録画していたころは目に見えてストックが増えていくわけだけど、ハードディスクに眠っている分には(空き容量を確認しない限り)目立たないのでついつい録りためてしまう。しかもちゃんと姿勢を正して視聴したいものほど、まとまった時間がとれないと後回しということに……。


ということでずいぶん前に録画した番組を2つ、ようやく見終わった。

  • NNNドキュメント'08 「犯人にされた男 検証 富山えん罪事件」(2008年7月6日放送)

6年前、富山県西部の港町で強姦、強姦未遂事件が相次いだ。警察はタクシー運転手・柳原浩さんを逮捕。当初犯行を否認した柳原さんは、取調べ3日目に犯行を認めた。取調官からは「はい」か「うん」しか言うなと言われ、持っていないスニーカーも「自宅の前で燃やした」ことにされた。柳原さんはその後2年余り刑務所で服役。父親は服役中に他界した。出所後も隠れるように世間の片隅でひっそり暮らした。ところが、犯人は柳原さんではなかった。別の事件で逮捕された男が自供したのだ。柳原さんはなぜ犯人にされたのか?その真相を追う。 
(http://www.ntv.co.jp/document/back/index.html)

「はい」か「うん」しか言うな、って最初は聞き流してしまったのだが、「はい」か「いいえ」しか言うな、じゃないんですな。この番組では浜田寿美男氏にも取材していたのだが、30分という尺の問題もあって氏の特徴的な主張がほとんど紹介されていなかったのは残念。とはいえ浜田氏が指摘している取調べの問題点はこの事件でも見事なまでに現れている。被害者宅の見取り図を描けと要求されるが当然のこととして正しい図は描けない。すると取調官が「肩の力を抜け」と命じて被疑者(当時)の手を誘導する…。


  • ETV特集 「私はやってない〜えん罪はなぜ起きたか〜」(2007年9月9日放送)

今年の春、痴漢えん罪事件の実話をモデルにした映画『それでもボクはやってない』(周防正行監督)がヒットし、「えん罪」の問題が広く人々の関心を集めた。実際に痴漢えん罪は、警察が痴漢の取り締まりを強めた10年ほど前から頻発するようになり、社会問題にもなっている。今年はまた、富山の婦女暴行事件がえん罪だったことや、鹿児島の公職選挙法違反事件で被告たちが自白を強要されていたことが相次いで明らかになり、警察や司法への疑問の声も聞かれるようになった。


えん罪はなぜ起きたのか。なぜ人は無実の罪を「自白」してしまうのか。番組ではそれぞれの事件の当事者を取材し、その理由や背景を探っていく。


また番組の後半では、どうすればえん罪を防げるかを考える。最近、早期実現が叫ばれている「取調べの録画・録音」。取調べ室でのやりとりをすべて記録しておくことで、自白が信用できるかどうかを後で検証できるようにしようという試みだ。欧米のみならず韓国や香港、台湾などアジアでも採用され始めている。番組では、「積極的に取り入れるべし」という日弁連、「時期尚早」という最高検察庁警察庁にそれぞれの理由を取材。スタジオでは作家の佐木隆三さんやジャーナリストの江川紹子さん、元最高検察庁の検事で白鴎大学大学院の院長・土本武司さん、えん罪事件を数多く手がける弁護士の秋山賢三さんらゲストが議論する。
(http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2007/0909.html)

上記要約では触れられていないが、番組では富山の事件を例に「証拠の全面開示」の重要性が秋山弁護士によって主張されていた。被害者の供述によって特定された犯行時刻に被疑者(といっても現在では冤罪被害者というべきだが)が兄と20分以上通話していた記録を警察が入手していながら隠されてしまっていたとのこと。
もちろん司法制度は全体として機能しているのだから特定のポイントだけを焦点化して司法を批判するのは公正を欠く怖れもある。アメリカではDNA鑑定によって冤罪であると判明した(元)死刑囚が100人を超えるという事態になっているが、こうした側面から見れば日本の司法制度の方が全体としてはマシという見方もできよう。しかし被疑者の権利擁護の不十分さをある程度補ってきたと思われる日本的な精密司法は、裁判員制度の導入に伴って変化することが予測されている。同じく裁判員制度によって公判前整理手続きが重視されるようになるわけだが、証拠の全面開示がなされなければこれは被告人にとって著しく不利な結果をもたらしかねない。必ずしも日本で他国と比べて多くの冤罪が起きているということではないだろうが、どうすれば冤罪を減らすことができるかはかなりはっきりしており、長年提言され続けているのに抜本的な見直しをしようという気運が高まらないのが問題だ。


さて取調べの可視化については、検察側(元検事のゲストも含めて)は次のような理由を挙げて反対している。一つは当ブログでも何度か言及した、“取調べにおける人間関係の構築を妨げる”というのもの。取材を受けた検察幹部は“腹を割った”話し合いができなくなる…といった表現を用いていたが。もう一つは録画によって供述が直ちに証拠にされるとなると被疑者が供述を躊躇う、というもの。これについては秋山弁護士から「録音・録画制度を導入した国々で自白率が低下したというデータはない」という趣旨の反論があったが、現状でも供述調書は証拠としてしばしば用いられている以上、反対理由としては本質的なものとは認め難いだろう。
最後の一つは自白に依存せざるを得ない事情、すなわち客観的な証拠を収集するために有効ないくつかの手段が日本では捜査機関に与えられていない、というもの。これは先日紹介した丸激で河合幹雄氏が指摘していたことでもあり、たしかに一理はあると認めざるを得ないものだ。具体的には司法取引、おとり捜査、通信傍受、潜入捜査などがあげられていた。これらのうちおとり捜査、通信傍受、潜入捜査などはそもそも適用可能な犯罪類型が限られているんじゃないかとか、公安は全部やっとるじゃないかとか、それよりも捜査費が裏金にまわされずにちゃんと捜査費として使われるようにするのが先だろうとか、まあいろいろと反論は思いつく。戦前の警察のあり方に由来する警察不信→警察の手を縛る→強引な捜査→警察不信…という負の連鎖によって身動きが取れなくなっているのだとすると、これを断ち切るためには政治的なリーダーシップが不可欠だろう。司法取引については頭から「国民の正義感情からいって受けいれられないだろう」と決めつけている節がうかがえるが、「より責任の重いものをきちんと裁くため」という原則を定めたうえで、制度の(予想される)功罪を明らかにし、被疑者の権利擁護とセットで導入することをきちんと問題提起してみるべきではないか。現状では“自白すれば家に帰してやる”“無罪を主張せず反省していることを強調した方が量刑で有利”というかたちで、インフォーマルな「司法取引」が生じてしまっていることの弊害の方が大きいだろう。