他者の自尊感情は「理屈」にならないという思想

MSN産経ニュース 「【断層】呉智英 それ、いつの時代の話?」(魚拓
支那」という呼称については sumita-mさんがつい先日とりあげられたばかりなので、「「シナ」を巡ってメモ幾つか」をご覧いただきたい(コメント欄も)。関連する情報として外務省のサイトに次のようなものがある。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shidehara/03_2.html

【中国の呼称変更】


 日本政府は当時、条約や国書を除いて中国を「支那」と呼称するとの閣議決定(1913年6月)に基づき、中国に対する呼称として通例、「支那」を使用していました。


 しかし、中国側は侮蔑的なニュアンスの強い「支那」との呼称を好まず、「中華民国」を用いるよう求める意見が強まっていました。たとえば、1930年(昭和5年)5月、国民政府文書局長の楊煕績は、日本が関税協定の条文中に「支那」を使用した事を批判し、「今後日本側カ重ネテ斯ノ如キ無礼ノ字句ヲ使用スルトキハ我方ハ之ヲ返附スルト共ニ厳シク詰責シ以テ国家ヲ辱シメサルコトヲ期スヘシ」と論じていました。


 こうした中国官民の感情に配慮して、1930年(昭和5年)10月、浜口内閣は常則として「中華民国」との呼称を用いる旨を決定しました【展示史料16、17】。

展示資料16、17はアジア歴史資料センターでオンライン閲覧できる。リファレンスナンバーはB02031598600。
さて、ここでは最終段落の「支那を「中国」と言えと外務省局長通達で「理屈抜きに」強制されるようになったのは昭和二十一年のことだ。むろん背後には米占領軍の力がある。」という箇所に注目したい。「理屈抜きに」と強調されている部分だ。外務局長通達(アジア歴史資料センター:レファレンスコードA06050410200)にあるこの「理屈抜きに」という文言が呉智英のお気に入りであることは、昨年にも産經新聞紙上で言及していることからもわかる(Prodigal_Sonさんのエントリを参照)。しかし実際には、通達にはちゃんと「理屈」が書いてある。「支那といふ文字は中華民国として極度に嫌ふものであり」と。「相手の嫌がることは、理屈抜きにやらないようにしよう」というのは立派な「理屈」である*1。この「理屈」が呉智英には理解できないわけである。この事実と【断層】コラム中で2度にわたって「美人」が強調されていることとは実によく符合する。要するにセクハラ体質、ってこと*2。自分の行為が他者の自尊感情を傷つける、ということはこの種の手合いにとってはその行為を控える理由にはならないわけだ。もちろん、東京都知事も同類である。
MSN産経ニュース 「自分嫌いをなくそう! 都が小学生に「自尊教育」導入へ」(魚拓1ページ目2ページ目
他者の自尊感情を意に介さない人間が首長をつとめる都市で(あるいはそういう人間を首長に選ぶ社会で)育つ子どもの自尊感情が低いのは実に自然なことだと言えよう。

*1:むろん時と場合によっては「相手の嫌がること」でもやらざるを得ない、あるいはやるべきなのだからこの「理屈」が普遍妥当性を欠くという批判はあり得る。しかしもともと例外なき普遍妥当性が主張されているわけではないと解すればこの批判は回避可能。実際、局長通達では「唯歴史的地理的又は学術的の叙述などの場合は、必ずしも右に拠り得ない、例えば東支那海とか日支事変とか云ふなどはやむを得ぬと考えます」とされており、合理的な――少なくとも主観的には――理由のある「支那」の使用まで排しようとしたものではないことがわかる。

*2:桐野夏生に「呉智英を切れ」と言われてそれを呑むメディアと呉智英に「桐野夏生を切れ」と言われてそれを呑むメディアがそれぞれどれくらいあるだろうか…ということを考えれば直接的にはセクシャル・ハラスメントが成立する余地はないと思うがw