朝倉喬司、「私の視点」コラム

今朝(7日)の朝日新聞朝刊「私の視点」、朝倉喬司の「◆今年の「犯罪」 勝手な「断罪」強まる怖れ」。短文のコラムだけで書き手を評価するのは正当とは言えないが、紙幅の制約を念頭において書かれていない文脈・前提を補完しつつ読もうにも、どうもよくわからない。
朝倉はまず「昨年は、いわゆる通り魔無差別殺人が多発した」と書きおこし、「ある人間が自分の境遇に不満を抱いているとして、そんな状態がなぜ自分にもたらされているのか、その明確な理由(ひいては克服の方途)を自分のなかにも社会にも見つけ出しにくいのが今の時代」だとし、「誰でもよかった」型の通り魔事件について次のように分析する。

 対象が「誰でもいい」のは、それが自分に敵対し、自分を迫害している(と本人が思い込んだ)現実総体というとらえ難い対象の、いわば身代わりだからであり、むしろそれは不特定多数「でなくてはならない」のである。

これに対し、元厚生事務次官およびその妻の殺傷事件については「犯人にすれば現実総体の特定された「代表」」であり「まるで自分の不遇の「明確な理由」がそこに見いだされたかのように、その「一点」に途方もない攻撃が集中された」、とみる。そのうえで、表題に関わる次のような議論を展開する。

 通り魔事件一般にどこか「抗議」の意味がこもるのに対し、こちらの犯行に強く浮かび出ているのは「断罪」の色彩である。
 両者の間にはまた、犯罪にまつわる攻撃性が「暴発」のかたちから、あらかじめある方向性をもった、よりテロリズムに近い形に変化しつつある兆しを見ることができる。

2008年の完全な統計はまだ明らかにされていないようだが、11月までの段階で「統計を取り始めた93年以降では最多」と報じられてはいる(毎日新聞の報道)。ただしその数は13件、死者11人(負傷者31人)であって、有意味に「昨年は…多発した」と言いうるかどうかは疑問である。ご存知「少年犯罪データベースドア」でも紹介されている昭和58年の「犯罪白書」のデータ(昭和56年=254件、殺人被害者7人、昭和57年=182件、殺人被害者13人)と比較すると、殺人の被害者数こそ秋葉原事件の影響でたしかに少なくはないものの、件数全体は「果たして同じ定義に基づく統計なのか?」と疑いたくなるほど(過去15年間を通じて)少ない。
とはいえ、ここまではなにを言わんとするかは分かる。厚生事務次官および家族殺傷事件を「予兆」とみるのは私自身は性急だ(そして性急かつ過剰な意味付けは害あって利なしだ)と思うが、しかしたしかに個別の出来事の意味を考えるのは難しい問題であって、事後的には「ここにその予兆が現れていた」とされるような事件の意味が当時においては看過されていたということもあろうから、ナンセンスだと決めつけるつもりもない。しかし、結びの段落はさっぱり分からない。

 日本は現在、殺人の総発生件数の約半分が家族、親族間で起きているという「異常」を内に抱えている。私たちが、自分のリアルな生活圏の外に、あるかなきかの夢を過大にふくらますという、ここ何十年間にわたって馴染んできた習癖を少しはセーブしない限り、この「異常」が解消する保証はないだろう。

日本において親族間の殺人事件が多い、という点についてはこちらも参照されたい。なお、日本における親族間の殺人については進化生物学者長谷川寿一長谷川眞理子による研究がある。両者による『進化と人間行動』(東京大学出版会)の137ページ、149ページ〜153ページを参照されたい。もっとも、同著者による論文「戦後日本の殺人の動向」(『科学』、200年7月号)の紹介を tikani_nemuru_M さんがしておられるので、そちらをご覧いただければはなしは簡単。また、前出拙エントリにコメントを下さっている NORMAN さんが独自に調査した結果を集計しておられるので、そちらもご参照いただきたい。NORMANさんの最新エントリもまた08年における通り魔事件についてのものだ。
日本において親族間の殺人事件が殺人事件全体に占める割合が高い、というのが他の社会と比較した場合の顕著な特徴である(らしい)、という意味でこれは確かに「異常」ではあるといえる。しかしこれは裏を返せば、「見知らぬ人」を被害者とするような殺人事件の比率が日本では低い、という意味での「異常」でもある。「この「異常」」が解消するということは「血縁関係のない知人」および「見知らぬ人」を被害者とする殺人事件の比率が高くなるということである。そしてこの「異常」は殺人事件全体が大きくその数を減らしたのに対して親族間の殺人はさほど減っていないことによって起きている以上、それが解消するとすれば「血縁関係のない知人」および「見知らぬ人」を被害者とする殺人事件が再び増えたときであろう。
そもそもこの「異常」の背景が「自分のリアルな生活圏の外に、あるかなきかの夢を過大にふくらますという(…)習癖」だ、というのがいかにも唐突である。むしろ親族間の殺人は、「リアルな生活圏」の外部への展望がもてないからこそ起きるのではないだろうか。もちろん展望と「過大」に膨らんだ「夢」とは違う、とは言いうるだろう。しかしそんな「習癖」があってそれが殺人事件の動向と関係があるなら、現代日本社会はもっと攻撃性が「見知らぬ人」に向かうような、通り魔殺人事件の多い社会であったはずだとも言えるのではないだろうか。前半と後半で問題意識がつながっていないうえに、後半では説明すべきことをとり違えているように思えてならない。