私はいかにして死刑廃止の論拠について心配するのを止めたか


私も以前は「なぜ死刑を廃止すべきか」の論拠をどう表現するかいろいろと考えたものですが、最近は実にシンプルな主張に落ち着きました。「殺すな、という主張に根拠は要らない」です。
こういう境地に達するうえで、南京事件否定論者の言動をフォローして来たことは大いに関係しています。「捕虜を殺したのは正当である」と主張するために様々な詭弁を弄する人々を見ていると、そうした主張に対して国際法やら当時の軍事的情勢やらを引き合いに出して「いや、あの捕虜を殺すのは不当だった」と反論するのは実は間違っているのではないか、とすら思えてきますから。
死刑存置論はしばしば「国民の正義感情」を論拠にしますが、しかしこの「正義感情」たるや、被害者の数が膨大で“顔が見えなくなる”とかえって被害者への関心を失ってしまうようなシロモノです。だって、9割近くが死刑を支持するその社会で、万の単位で被害者のいる大虐殺を否定するために詭弁を弄する人間が大学教授やらジャーナリストやら国会議員として通用してしまっているわけです。光市母子殺害事件での「ドラえもん」発言を非難した人々のどれくらいが、例えば河村たかし名古屋市長の恩知らずかつ荒唐無稽な発言を非難したでしょうか。ありもしない大量破壊兵器を口実に始められ10万人以上の死者(その半数以上が非戦闘員)を出したとされる戦争に日本も加担することを決めた当時の首相が、国会に証人として喚問されることすらない国の「国民の正義感情」を根拠に、さらに人を殺すのですか?
反対に、加害者の“顔が見えない”ときにも我らが「国民の正義感情」は誤作動します。そうして「民族としての一体感をもてばいじめによる自殺は減る」とか言い出したりするわけです。年間3万件を超える自殺のうちいじめや差別、パワハラ、あるいは社会保障の不備などが大きな要因になっている(と推定できる)ものがどれくらいあるのか知りませんが、河合幹男氏が「極めて同情できる」ケースなどを除外して推計した普通の〜凶悪な人殺し570人*1による被害者数と比較した場合に“とるに足らない”程度でしかない、ということはないと言ってよいでしょう。もちろんいじめの加害者や生活保護申請窓口の担当者を殺人罪で訴追すべきだ、などと言うのではありません。しかし「国民の正義感情」が本当に事態の深刻さに見合った反応をしているのかどうかを反省してみることは必要であるはずです。

*1:警察の統計における「殺人」には無理心中、介護疲れ殺人、殺人未遂、殺人予備なども入る一方で強盗殺人等が含まれないので、われわれの素朴な道徳感情に照らして“人殺し”とされるケースとは合致しません。そこで河合氏は2004年を例に、判決での量刑によって「本当に凶悪事件を犯している」ケースが129人、「同情可能でも、凶悪でもない事件」を起こしたのが189人、「程度の低い言い訳があるか、殺しきれなかったというようなあたりの事件」を起こしたのが252人、と分類しています(『日本の殺人』、ちくま新書、53-54ページ)。その合計が570人。これに危険運転致死のケースなどを加えてもよいでしょうが。