「人の生命が軽んじられている現代の世相」だそうで

 裁判員裁判の判決で示される「刑の重さをどう判断したか」の理由や、判断のポイントの変化に日本弁護士連合会が注目している。いつも使われてきた表現は減り、これまで検察側や弁護側の常識だった主張が判決に必ずしも反映されなくなった。日弁連裁判員が重視する事柄の「傾向」を読み取り、弁護側の主張に生かす「対策」に乗り出すとともに、裁判所がすべての判決をホームページで公開するよう求めている。
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 だが、裁判員の場合、「相場」にこだわらない傾向もみられる。刃物で1人を殺害した事件で「人の生命が軽んじられている現代の世相を考えると、平穏な社会生活を守り、犯罪を抑止するためには従来よりも重い刑が相当だ」と述べた判決があった。さいたま地裁で19日にあった強制わいせつ致傷事件の判決は、同種の前科を重視して検察側の求刑(懲役7年)を上回る懲役8年を言い渡した。

強調は引用者。まあたしかに、現代の日本で「人の生命が軽んじられている」なぁと思うことはあります。しかしそれは殺人事件――そう、昨年認知件数において戦後最低を更新した罪種です――のニュースを見聞きした時ではなく、足利事件と同時期のDNA鑑定が決め手となって有罪となった死刑囚が再審請求の準備中であったにもかかわらず死刑を執行されたとき(その後、遺族が再審を請求)とか、生活保護申請に対する“水際作戦”のはなしを聞いたときであったりします。あるいは「基本給の中に時間外労働80時間分が組み込まれるシステム」なるもので過労死者を出したからといって経営者が臭い飯を食うわけじゃない、という現実に改めて直面したとき、などですね。
それでも、圧倒的な火力を誇る敵に対して「かまやなた」、あるいは「柔道や空手」で戦うよう国民に求める社会に比べれば、ずいぶんと「人の生命」は重みを増しているんではないでしょうか。水俣病を生み出した1950〜60年代というのは「人の生命が軽んじられている」時代ではなかったのでしょうか?
量刑が「相場」とは違うことそれ自体をただちに不当ということはできないでしょうが、こんな印象論でもって重い量刑食らわされるのはご免被りたいですね。私が被告人だったら控訴理由の中心に据えるでしょう。