「押しつけかどうか?」というなら「押しつけ」でしょうが

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20090523/p2#c
id:BigHopeClasic 氏が私のコメントに対して次のようにコメントされているのだが、エントリの主題とは大きくずれるのでこちらで返答させていただく。

>日本は自力で「国民主権」を実現したわけじゃない


Apemanさんのこのコメントは、「押し付け憲法論」に与するものではないかと、Apemanさんの政治的立場を知らない人がこれだけを取り出して読んだら、誤認するのではないかなあ。


私は護憲派として、実質がどうだろうと、「日本人は自力で国民主権を選択し憲法を制定した」と言いますけれど。

押し付け憲法論」というのが「現憲法GHQが押し付けたものだから、まさに押し付けであるということを理由として改正されるべきである」という主張を指すのであれば、私の「政治的立場を知らない人がこれだけを取り出して読ん」でも「押し付け憲法論」に与するものだと誤解することはまずないんじゃないですか? この意味での「押し付け憲法論」を主張するひとの多くは、憲法に関する限り「押し付けられた」ってことをやたら強調するくせに、その他の点に関して日本という国家の情けない側面を指摘されることを嫌う傾向がありますからね。そもそも「押し付けだから憲法を変えたい」ってのは「押し付けられた、という屈辱的な歴史を忘れたい」という欲望の現れではないか、と。
他方、「改正すべきかどうか」という問題とは切り離して、現憲法の制定過程の評価として「押し付け」だったという主張を「押し付け憲法論」と呼ぶのであれば、私は「押し付け憲法論」に与する者ですよ。まあ雑駁な二者択一をやれと強制されれば、のはなしですが。
憲法制定過程についてもいろいろと史料が発見されるに連れて、日本人による能動的な関与を指摘する研究があることはもちろん承知しています。最近だと憲法25条なんかがその例としてよく引き合いに出されますね。しかし私は次のような発想には与することができません。

私は護憲派として、実質がどうだろうと、「日本人は自力で国民主権を選択し憲法を制定した」と言いますけれど。

「実質がどうだろうと」というのは山本七平の「事実であろうと、なかろうと」とどう違うというのでしょう? 憲法制定過程で日本人が能動的に関与しうる余地があったことも確かですが、しかし大枠に関してはGHQに与えられた制約があったこと、このまぎれもない事実を無視して護憲もへったくれもないと私は考えます。