歴史修正主義と「欠如モデル」


地下猫氏の

というツイートをきっかけとしたやり取りがまとめられています。
http://togetter.com/li/217093
ご覧いただければ明白なように完全な堂々巡りになっちゃってますので、こちらで私見をまとめておきます。
歴史修正主義という問題の一つの側面を科学コミュニケーションのそれとして理解することは可能であるし、啓発的でもありうると思いますが、もしそのように理解するのであれば歴史修正主義は「欠如モデル」の限界を示す好例である、と考えるべきです。
もちろん、南京事件なり従軍「慰安婦」問題についての「知識の欠如」は存在しています。そしてそうした「知識の欠如」が歴史修正主義者にとって都合のよい環境をつくりあげていることも確かでしょう。しかし歴史修正主義が問題である所以は、どれほど「知識」を注入したところで大多数の歴史修正主義者は見解を改めたりしない、というところにこそあります。逆に言えば、「かくかくしかじかの証拠が存在しているよ」と「知識」を提供することによって解決するようであれば、それはもともと「歴史修正主義」という問題ではないのです。
南京事件否定論者や「慰安婦」問題否認論者は史実を知らないから史実を否定するのではありません。日本軍を免罪するという目的のために恣意的に史料を選択したり歪んだ解釈を施すこと。「中国人の言うことは信用できない」といったレイシズム。前借金で強制された売春を「商行為だから問題ない」と考える性暴力観、女性観。日本軍の戦争犯罪についてのみ発動される選択的懐疑主義。あるいはそうした選択的懐疑主義が横行していることに気づかなくさせる自民族中心主義*1。あるいはそもそも戦争被害全般について「しかたない」ですませようとする傾向……。こうした要因こそが史実の否定を可能にしているのです。ここでは「知識」は解決策にはなりません。
さらに、日本軍の戦争犯罪に関する「知識の欠如」は日本政府の意図的な選択によって――そして自己愛を傷つけるおそれのあることは知りたくない有権者によって支えられて――引き起こされているという点も重要です。この意味でも「知識の欠如」は歴史修正主義の中心的な問題ではありません。
もちろん、こうしたことを私も最初から理解していたわけではありません。むしろ南京事件否定論者とのやり取りを通じて「知識の欠如」の問題ではないことを学んでいったと言えるでしょう。古くから拙ブログをご覧いただいている方であれば、エントリの重点が「事実の提示」から「歴史修正主義の背景にある戦争観、(性)暴力観などの分析」へと移っていることがお分かりではないかと思います。


追記:以下のツイートにはこちらで返答しておきます。

第一に、上述のように私の歴史修正主義批判の重点は「事実の提示」から別のところにシフトしています。第二に、(比較的最近の)私のエントリにおいて「事実の提示」が行なわれている場合にも、私の目的は歴史修正主義者の「知識の欠如」を埋めることにはありません。そうした事実の無視、軽視がレイシズムや差別的な女性観などによってこそ可能になっている、ということを明らかにするのが目的です。

いや、戦争教育に比べれば「理科教育」の方がはるかになされているし、日本政府の妨害なども基本的にはないわけだけど、それでも「疑似科学」の問題はあるわけでしょ? それってまさに「知識を授ければ解決する」という発想に限界があることの証左でしょう。

*1:この点については最近書いたエントリ、http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20111117/p1 を参照されたい。