「派遣村」by産経
産経が下衆いことを書くだろうことは分かり切っていたのだが、さすがにこれは意味不明だ。
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民主党の菅代表代行も「後世から見れば、派遣村が日本の雇用、労働問題の転機になったと言われることは間違いない」と話すが、全国にはなかなか生活保護が認められない人や、特に地方で派遣切りにあった人の中には、日比谷公園までやって来れなかった人もたくさんいる。生活保護は、私たちの税金から拠出されているのである。
実行委では今後、全国各地に派遣村をつくり、放り出された人たちを支援していきたい考えだ。すでに、ノウハウの提供などを求める声が寄せられているという。
だが、厳しい意見もあることを意識してか、15日の集会では名誉村長の宇都宮健児弁護士が、こんな言葉を漏らしている。「活動が広がるか。それは1人1人の村民のこれからにかかっている」。
(http://sankei.jp.msn.com/life/welfare/090118/wlf0901181801000-n6.htm)
「全国にはなかなか生活保護が認められない人」がいるのは言うまでもなく「派遣村」を企画・運営した人々(だけ)の責任ではなく日本社会全体の問題である。「日比谷公園までやって来れなかった人もたくさんいる」のは、東京以外の場所で同様な企画を立ち上げられなかった市民(もちろん産経新聞社員や産経新聞読者を含む)の問題であって、「派遣村」がなかったとしてもそうした人々が救われたわけではない。「生活保護は、私たちの税金から拠出されている」からどうだというのだ? 東京以外の場所でも憲法が保証する生存権に実質を与えるよう生活保護制度を運用しろと主張したいのか、それとも東京で(のみ)新たに生活保護を受給できるようになった人々がいることに文句でもあるのか? 最後の段落は一層意味不明。宇都宮名誉村長のコメントが「意識」している「意見」があるとすれば、それは「東京以外で困窮している人々をどうするのか?」というものであっても「「派遣村」にいたのは誰か?」とか「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」といった(引用部以前にこのコラムがさんざん強調した)ものではあるまい。婉曲に「派遣村」を批判しつつ、さらに「派遣村」のような運動が東京以外で起こらなかった(正確にいえば、「派遣村」と並べて報道されるような規模では起こらなかった、だろうが)ことまで批判に利用するという、下衆の極み。