雑感


私が子どもだった頃は関西のテレビやラジオで放送される落語が上方落語中心になってゆく時期だったこともあり、立川談志の落語はほとんど聞いたことがない。しかしメディアを通じて時折伝わってくる談志のイメージというのはどうしても好きになれなかった。以前にとりあげたこともある、再審で無罪になった免田栄さんについて「やってねえわけねえんだ」と放言した件などが好例だろう。熊さん八つぁん(上方落語なら喜六清八)ってのはこういう場合、なにをおいてもまず「それにしても奉行所ってのはひでえところだ」と言うもんじゃないの? と思ったものだ。しかしその後彼が著書で「落語は業の肯定である」と主張しているということを聞いて、「なるほど」と腑に落ちた。「業」という概念をどう理解するかについての詳しい議論はひとまず棚上げして“人間の弱さや愚かさ”などと理解しておくことにすると、なるほど落語にはそう評しうる側面は確かにあるだろう。そして人間の弱さや愚かさを一挙に解決しようとする試みがどのような結末を迎えたかを考える時、弱さや愚かさを「肯定」する芸能の存在意義を考えることもできるだろう。しかし他ならぬ落語家が、特に談志のようなパブリック・イメージをつくりあげている落語家が「落語は業の肯定である」と明示的に主張するとき、「肯定」は「居直り」へと転化するのではないか? 談志の言動に私が感じてきた不快感はこうした「居直り」へのそれだと解釈すれば、うまく説明がつくように思うのだ。


さて大阪ダブル戦の結果についてはすでにいろいろなことが言われているし、これからもしばらくはいろいろなことが言われるだろう。そうした分析についてはまだあまり目を通していない現時点でとりあえず思いつきを述べておきたい(だから、以下の記述についての異論反論は大歓迎だが「根拠を示せ」は今回に限りご勘弁こうむりたい)。橋下を支持した(支持してきた)人びとは真面目な人だったのではないか、と。
「真面目」な人は、人殺しのくせに弁護人つけて最高裁まで争うってだけでもいまいましい思いをしているのに、「ドラえもん」とか「山田風太郎」だとか聞かされると「許しがたい」と思うんでしょう。死刑が確定しているオウムの幹部たちについても「洗いざらい喋らないとはなにごとか」と思うわけです。勤務時間中にキャッチボールする公務員なんて万死に値する、と。それから、国レベルの財政赤字についても言えることですが、やっぱり「真面目」な人は「そりゃなんとかしなきゃ」とまず思いますよ。私なんかは、刑事被告人(と弁護人)は法が許す範囲でどんな悪あがきだってする権利があるし、死刑にされようとしている人間にあれこれ注文つけたってしかたないじゃん、と考える不埒者です。不埒者だから「借金といっても、日本政府の対外債務は大したことないから……」と聞かされれば「なるほどね」と思うこともできるんですが、「真面目」な人には「子孫にツケを払わせる気か?」という主張の方が圧倒的に説得的なんだろうと思います。「そんな緊縮財政を支持したら自分の首を絞めることになるよ」という反論は「真面目」な人には多分効果がないでしょう。だって、「真面目」な人にとっては身を削って財政赤字を減らす方がよりいっそう道徳的な選択ということになりますから。
「敵を見つけて叩くことで人気を得る政治手法」という言い方がしばしばされますし私もしてきたわけですが、その「敵」の見つけ方において「真面目」な人びとの道徳感情に実に効果的にはたらきかけている、という点も見逃せないんじゃないかと思います。不埒者は生活保護の不正受給より捕捉率の低さ(生活保護を受給できる生活状況にありながら受給していない人びとが多数いること)の方をより大きな問題だと考えます。しかし「真面目」な人にとって捕捉率の低さは「苦しくても頑張っている、立派な人がたくさんいる」ということを意味するのであり、「それにひきかえ働けるくせに生活保護受けるとは……」となるわけです*1横山ノック以来、大阪の有権者の投票行動について「イチビリ精神」といった論評がなされることがよくありましたが、前回の都知事選にせよ今回のダブル選にせよ、多くの有権者は極めて「真面目」に選択したのだと思います。とすれば必要なのは、「真面目」な人びとが気づいていない不正義を指摘し知ってもらうこと以上に、彼らが「当然のこと」と見なしていることが実は不正義である、というパースペクティヴの転換をもたらすことなのでしょう。


ところで、このエントリの(一部の)原型となったツイートを日曜の晩に書いた際に、hokusyu さんから「そして日本においてその不真面目さを独占しているのが「ワル」なオヤジという表象ですから」という興味深いコメントをいただきました(「その不真面目さ」というのは私の一連のツイートの文脈に依るものです)。冒頭でとりあげた立川談志はそうした「表象」の代表的な事例ですし、石原慎太郎や(特にタレント弁護士時代の)橋下徹もまた「ワル」風味のキャラと云えるでしょう。しかしこの「ワルなオヤジ」というのは実のところ、「真面目」な人びとの中核的な価値観に対しては一切反抗しません。それどころかそうした価値観(「あれこれ妙な理屈を付けて人殺しを弁護するやつはけしからん」とか「甘えたガキにはビンタの一つもくれてやれ」とか)を露骨に表現する点において、彼らは「ワル」なのです。

*1:平松候補も特にこの争点に関しては「真面目」な人びとの道徳感情に訴える政策だったわけですが。