「「使命を終えた「博覧会」」
歴史的に見て、博覧会が時代の文化や人々の意識に大きな影響力を持っていたのは、一八五〇年代から第二次世界大戦までの間である。もともと博覧会とは、フランス革命後のパリに誕生し、十九世紀を通じて欧米各地に広がったイベントの形式である。なかでも一八五一年、ロンドンで初の万国博覧会が開催されてから、一九世紀後半になると欧米の大きな都市が次々に壮大な規模の万国博を開催し、「博覧会の世紀」と呼ぶにふさわしい状況を現出させていった。実際、今日では万国博をはるかにしのぐオリンピックにしても、今世紀初頭には、万博会場の片隅でアトラクション的に行われていた時代があった。
(中略)
さらに博覧会は、単に「技術」や「商品」のディスプレー装置であるのみならず、「帝国」のプロパガンダ装置でもあった。当時の万博会場には、いつも大規模な植民地パビリオンが設けられ、帝国主義戦争の戦利品なども展示されていた。また、植民地の先住民を多数会場に連れてきて、まるで動物園のように柵(さく)で囲われた模造の集落に「展示」するという人種差別的な試みも、一部の人類学者たちの手を借りて行われていた。
ここで引用したのは第二の大阪万博という愚挙について書かれた文章ではなく、青島幸男都知事(当時)によって世界都市博覧会の中止が決定されたことをうけて書かれたものです。1995年5月15日『朝日新聞』夕刊掲載、「人間動物園」への言及があることで気づいた方もおられると思いますが、筆者は吉見俊哉氏です。
このコラムを読んだのと『博覧会の政治学』(1992年刊)を読んだのとどちらが先だったか失念しましたが、博覧会というイベントと帝国主義との結びつきについての指摘は強く印象に残っています。この社会の支配者層がこのコラムから20年以上たっても「万博」に固執していることと、韓国最高裁「徴用工」判決に対するこの社会の噴きあがりっぷりとの間にどのようなつながりがあるのか……と考えてみることにも意味があるのではないでしょうか。